第17話 吉岡の話
ダイブを再開して三日目の夜、吉岡が工場に来た。
製造の予定はない夜だった。吉岡が自分から来た。
手に、袋を持っていた。
「何ですか、それ」
「豆です」吉岡は言った。「小豆。餡子を作ろうかと思って」
大島は少し黙った。
「なぜ」
「工場、久しぶりに使ってみたくなって。製造じゃない使い方で」吉岡は照れくさそうに言った。「変ですかね」
「変ではないですけど」
「食品工場にいた頃、製餡の工程が一番好きだったんです。単純なんですよ、小豆を煮て、砂糖を入れて、練る。それだけなのに、ちゃんとやらないといけない。火加減と、タイミングと、あとは待つだけ。それが好きで」
大島は吉岡を見た。
工場の中に入って、吉岡は釜の前に立った。小豆を洗い始めた。慣れた手つきだった。
「手伝いますか」と大島は言った。
「いいんですか」
「やることもないので」
釜に水を張って、小豆を入れた。
火をつけた。蒸気が上がってきた。
吉岡は温度計を確認しながら、釜の前に立っていた。その顔が、工場で薬品を扱っている時とは違った。穏やかだった。
「最初に茹でこぼしをします」吉岡は言った。「渋を抜くために。一度沸かして、湯を捨てる」
「なぜ渋を抜くんですか」
「残しておくと、えぐみが出るから。でも、全部抜くと風味も落ちる。どこで止めるかが、加減なんです」
大島は黙って聞いた。
茹でこぼしをして、新しい水を入れた。また火をかけた。吉岡が時々温度計を見て、火を調整した。
工場の中に、小豆の匂いが広がり始めた。
甘い、素朴な匂いだった。
大島はその匂いを吸いながら、思った。
この工場が最初にこの匂いをしていたのは、こういうことだったのか。
製餡工場として動いていた頃の、この場所の匂い。老夫婦が経営していた時の、この工場の時間。
それが今、吉岡の手によって少しだけ戻ってきていた。
「吉岡さん」
「はい」
「食品工場を辞めなければよかったと思いますか」
吉岡は少し間を置いた。
「辞めたんじゃなくて、辞めさせられたんですけどね」吉岡は言った。「でも、思いますよ。時々」
「今も好きですか、こういう仕事が」
「好きです」吉岡は言った。迷いなく。「好きやから、つらいんですけど」
大島はその言葉を聞いた。
好きだから、つらい。
このエージェントは、自分が好きな仕事を、好きではない目的のために使われることへの葛藤を持っている。
大島はそう分析した。
しかし分析しながら、同時に別のことを考えていた。
俺も、何かそれに近いことをしているかもしれない。
何が好きで、何のためにそれを使っているのか。
大島はその問いを、すぐに頭から追い払った。
砂糖を加えて、練り始めた。
撹拌槽ではなく、吉岡は木のへらで手で練った。重そうだった。大島も手伝った。
熱い。重い。腕に力が要る。
二人で交互に練りながら、しばらく何も言わなかった。
工場の中に、甘い匂いが満ちていた。
窓の外は夜だった。虫の声がした。
「できました」
吉岡が言った。
艶のある、濃い小豆色の餡子が、釜の中にあった。
吉岡がスプーンで少しすくって、大島に差し出した。
「どうぞ」
大島は少し躊躇してから、食べた。
甘かった。
小豆の風味が、ちゃんとあった。えぐみはなかった。
「うまいですね」
「ありがとうございます」吉岡は言った。少し嬉しそうな顔をした。「砂糖の量、少し控えめにしました。甘さを抑えた方が、豆の味が出る」
大島は餡子を見た。
この工場で作られたものが、毒ではなく食べ物だった。
それだけのことだった。
しかし大島はその夜、それまでのどの夜よりも長く、工場に残った。
吉岡と並んで、片付けをした。釜を洗った。床を掃いた。
帰り際、吉岡が言った。
「また作りましょうか、今度」
「そうしましょう」
と、大島は言った。
言ってから、自分がそれを本気で思っていることに気づいた。




