第16話「フェーズ2へ向けて」
倉庫の床に、ノートが一冊ある。
表紙は無地の黒。大島が三年前から書き続けている、手書きのノートだ。
大島はそのノートを開いた。
最初のページには、二段階の計画が書いてあった。フェーズ1とフェーズ2。文字は三年前のもので、インクが少し褪せていた。
大島はその文字を読んだ。
フェーズ2:現実世界での実行。
それを見て、ノートを閉じた。
閉じて、再び床に放り投げた。
倉庫の中は静かだった。サーバーのファンが唸っている。冷却システムが低く振動している。それだけだった。
大島は壁に背を預けて、天井を見た。
データは揃っている。
それは間違いない。
流通ルートの構築方法。製造技術の習得経路。組織内での信頼の作り方。警察の動向パターン。摘発リスクを下げるための具体的な手順。山田のような上層部との関係の作り方。吉岡のような技術者の確保と管理の方法。
すべて、シミュレーターの中で実地で学んだことだ。
現実世界でフェーズ2を始めるのに、技術的な障害はなかった。
ならば、なぜ動かない?
大島は自分に問いかけた。
答えは、出なかった。
いや、正確には、答えが出るのが怖かった。
スマートフォンを見た。
現実世界の時間は、午後四時だった。
窓のない倉庫の中では、昼も夜もわからない。外に出ると、秋の午後の光が目に刺さった。
工業団地の一角。近くに似たような倉庫が並んでいる。たまにトラックが通るが、人の気配は少ない。
大島は倉庫の外壁に背を預けて、空を見た。
秋の空は高く、薄く雲がかかっていた。
橋本は今、何をしているだろうか?
そんな考えが浮かんだ。
大島は首を振った。
橋本は今、俺がいないシミュレーターの中で、低演算状態で存在している。感情も思考も、俺が観測していない間は省略されている。それが事実だ。
しかし。
大島がダイブしていない間も、シミュレーターは動いている。
橋本のエージェントは、観測範囲外では確率モデルで処理されている。しかしそれは、橋本が何もしていないということではない。確率モデルの中で、橋本は西成のどこかを歩いているかもしれない。煙草を吸っているかもしれない。山田と話しているかもしれない。
かもしれない、では意味がない。確率モデルの出力に過ぎない。
大島はそれを知っていた。
知っているが気になる。
倉庫の前に戻る。
ドアを開ける。
サーバーの前に立って、モニターを確認した。
シミュレーターは正常だった。橋本の座標は西成区内。吉岡は工場の近くの住居。山田は大阪市内の拠点。
全員、いる。
大島はモニターの前に立ったまま、少し考えた。
俺は何を確認したかったんだ?




