第15話 橋本と飲む
橋本と二人で飲んだのは、その週の末だった。
西成の、小さなバーだった。カウンターだけの店で、マスターは無口だった。橋本の行きつけらしく、入った時からウイスキーが出てきた。
橋本は珍しく、最初から飲んでいた。大島が来た時にはすでに二杯目だった。
「何かありましたか?」と大島は言った。
「別に」
しばらく、二人とも黙っていた。
「山田の兄さんから聞いたわ」橋本は言った。「先日、二人で会うたそうやん」
「はい」
「何を話したん?」
「色々と」
「俺抜きで呼んだんは、初めてやで」橋本は言った。「あの人が誰かを直接呼ぶのは、めったにないことやで」
「そうですか」
「そうや」橋本はウイスキーを飲んだ。「大島はん、あんた山田の兄さんに気に入られとる」
「そう見えましたか?」
「見える」橋本は言った。「それがな」
少し間があった。
「ええことかどうか、俺にはわからん」
大島は橋本を見た。
「山田さんに気に入られるのは、良くないことなんですか?」
「ええことでも、悪いことでもある」橋本は言った。「あの人はな、気に入った人間を手元に置きたがる。手元に置かれると、この商売から抜けられへんようになる。もっと深みにはまる」
「橋本さんは」
「俺もそうや」橋本は言った。あっさりと。「三十年前に気に入られて、今もここにおる」
大島はその言葉を聞いた。
三十年。
大島がシミュレーターに設定した橋本というエージェントの来歴に、三十年という数字は含まれていたか。
含まれていたかもしれない。
しかし今、橋本の口からその言葉が出た時、それは数字ではなく、重さとして聞こえた。
「後悔していますか?」と大島は聞いた。
橋本はグラスを持ったまま、少し考えた。
「後悔いう言葉が、正しいかどうかわからんな」橋本は言った。「別の道があったとも思わへんし、この道でよかったとも思わへん。ただ、事実ここにおる」
「それだけですか?」
「それだけや」橋本は言った。「人間てな、大島はん、大体そんなもんやで。ここにおる理由なんて、後から考えたら全部偶然や。でも、その偶然の積み重ねが、今の自分やから」
大島は黙っていた。
マスターがカウンターを拭いていた。静かな音だった。
「大島はん」橋本が言った。
「はい」
「あんた、どこへ行くつもりや?」
大島は橋本を見た。
「どこへ、とは?」
「この先の話や」橋本は言った。「この商売を続けるとして、どこまで行くつもりや。何がしたいんや、最終的に」
大島は少し考えた。
本当のことを言う気はなかった。
しかし、何も言わないわけにもいかなかった。
「まだわかりません」と大島は言った。
「わからんか」
「今は、目の前のことをやるだけです」
橋本はしばらく大島を見た。
それから、視線を外してウイスキーを飲んだ。
「正直な答えやな」橋本は言った。「嘘やけど、正直な嘘や」
大島は何も言わなかった。
「ええわ」橋本は言った。「俺も昔、同じ答えをした覚えがある」
二人は並んで、しばらく飲んだ。
何も言わない時間が続いた。
それは不思議と、不快ではなかった。
帰り道、大島は一人で夜の西成を歩いた。
橋本と別れて、すぐだった。
大島は歩きながら、ある事実に直面していた。
橋本の「正直な嘘や」という言葉。
あれは、大島が嘘をついていることを、橋本が見抜いていたということだ。
見抜いた上で、追わなかった。
なぜか。
大島はその問いを考えた。
エージェントの行動原理として考えれば、橋本は信頼関係の維持を優先した、ということになる。相手の嘘を暴くよりも、関係を続けることを選んだ。それはパラメーターの出力として、説明できる。
しかし、それだけではない気がした。
橋本は「俺も昔、同じ答えをした覚えがある」と言った。
つまり橋本は、大島の嘘の向こうに、自分の若い頃を見ていた。
AIが、他者に自分の過去を重ねる。
それは、想定していたか。
大島は立ち止まった。
夜の路地の真ん中で、立ち止まった。
俺は今、橋本のことが心配だ。
その感情が、自分の中にあった。
認めたくなかったが、あった。
山田に気に入られることで、橋本が何か不利な立場に立たされるのではないかという、心配が。
なぜ俺が、AIのことを心配する。
大島は歩き出した。
速く歩いた。
その感情を、足で踏み消すように。




