第14話 精製
三度目の製造が終わった夜、吉岡が珍しく酒を飲みたいと言った。
工場から車で二十分、国道沿いのチェーンの居酒屋だった。田舎の夜の店は空いていた。カウンターの端に並んで、ビールを頼んだ。
吉岡はグラスを半分ほど飲んでから、言った。
「純度、上がりましたね」
「ええ」
「次からはもう少し収率も改善できます。蒸気釜の温度プロファイルを見直せば、抽出効率が十パーセントは上がるはずです」
「それは良かった」
しばらく、二人とも黙っていた。
テレビでプロ野球の中継をやっていた。音量が小さくて、何を言っているかよく聞こえなかった。カウンターの向こうで、若い店員が暇そうにスマートフォンを見ていた。
「大島さん」
吉岡が言った。
「何ですか」
「先日のこと、すみませんでした」
「先日というのは」
「弱音を吐いた件です。あの後、大島さんの言った通りだと思いました。俺に出口はない。それは事実です。だったら、せめてちゃんとやろうと思って」
大島はビールを一口飲んだ。
「謝らなくていいです」
「でも」
「あなたが動揺するのは、正常な反応です」
吉岡は少し黙った。
「大島さんは、動揺しないんですか」
「します」
「今まで見たことがないですけど」
「見せていないだけです」
吉岡はグラスを持ったまま、大島を見た。
「本当ですか」
大島は答えなかった。
テレビの画面の中で、誰かがホームランを打った。小さな音量で、歓声が流れた。
現実は正しかった。
大島は動揺していた。
ただし、それを吉岡に見せる理由はなかった。見せることに、何の意味もなかった。
動揺の原因は、わかっていた。
三度目の製造が終わった後、橋本が流通先からのフィードバックを持ってきた。品質の評価。価格への反応。リピートの状況。そういう事務的な報告の中に、一行だけ混じっていた。
「先月の件、もう一人出た」
先月の件、というのは過剰摂取による死亡のことだった。
もう一人。
大島はその報告を受けた時、何も言わなかった。橋本も何も言わなかった。二人の間で、その話題は一秒も続かなかった。
それだけのことだった。
それだけのことだ。
大島は自分に言い聞かせた。
シミュレーターの中で、エージェントが死んだ。それだけだ。エージェントは死んでも、サーバーの中のデータとして存在し続けている。消えたわけじゃない。ただ、活性状態から非活性状態に変わっただけだ。
正しかった。
正しかったが、吉岡の隣でビールを飲みながら、大島はその「正しさ」が今夜少し軽いことに気づいていた。
「吉岡さんは」と大島は言った。「そもそもなんでこの仕事を受けられたんですか?食品工場の話、以前少し聞きましたが」
吉岡はグラスを置いた。
「上が変なことを始めた、と言いましたよね」
「はい」
「具体的には、添加物の偽装です。原価を下げるために、表示と違うものを入れていた。俺はそれに気づいたんですけど、上に言ったら、逆に共犯にされた。証拠を握られて、黙ってろと言われた」
「それで」
「最初は黙ってました。でも、黙っているうちに、どんどん深みにはまって。気づいたら抜けられない場所にいた」吉岡は言った。「橋本さんと繋がったのも、工場が絡んだ別のトラブルがきっかけで。気づいたらここにいました」
大島は聞きながら、吉岡のエージェント設定を思い出そうとした。
食品工場。内部告発。共犯への巻き込み。
そういう設定を、確かに組み込んだ記憶がある。
ある。
しかし今、吉岡の話を聞いていると、それが設定の出力として聞こえなかった。
一人の人間が、取り返しのつかない場所に流れ着くまでの話として、聞こえた。
錯覚だ。
大島は思った。
レンダリングの精度が高いから、そう聞こえるだけだ。
「大島さんは」吉岡が言った。「どうして最初に、こういう仕事をやろうと思ったんですか」
大島は少し考えた。
さすがに本当のことを言える訳が無い。この世界がバーチャルで、現実に向けての予行演習だとは言えない。
「確かめたいことがあった」と大島は言った。
「何を」
「自分がどこまでやれるか」
吉岡は少し黙った。
それから、小さく笑った。
「前に俺が言ったことと、同じですね」
「そうですね」
「嘘ですか、本当ですか」
大島は吉岡を見た。
「半分ずつです」
吉岡はしばらく大島を見ていた。それから視線を外して、ビールの残りを飲んだ。
「大島さんって、結局何者なんですか?」
「ただの人間ですよ」
「そうは見えないですけど」
「どう見えますか」
吉岡は少し考えてから言った。
「何でもわかってる人みたいに見える。でも、私らとは中身が決定的に違うようにも思える」
大島は何も言わなかった。
テレビの中で、試合が終わった。選手が整列して、礼をしていた。




