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ダイブ前夜

2035年の秋。




 大島幸隆は、倉庫の鉄扉を背にして、自分が作り上げたものを眺めていた。




 かつて印刷会社の資材置き場だったその空間は、今や別の何かに変貌していた。サーバーラックが十二列。床から天井まで、黒い鉄の棚が整然と並び、無数のLEDが青白く明滅している。冷却システムのファンが低く唸り、まるで巨大な生き物が眠っているような、規則正しい機械の呼吸音が満ちていた。




 総工費、二億一千四百万円。




 四十三歳の男がたった三年で積み上げた、狂気の結晶だった。








 事の起こりは、一本の動画だった。




 三年前の深夜、大島はソファに寝転がりながら、スマートフォンで何の気なしにサイエンス系のチャンネルを流していた。再生数は百万を超えていた。タイトルは「宇宙はピクセルでできている──重力とプランクスケールの不思議な一致」。




 内容は難解だった。宇宙の最小単位であるプランク長。その尺度で空間を刻んでいくと、重力の振る舞いが情報処理のアルゴリズムに酷似しているという話だった。物理学者が真顔で言う。「空間そのものが、データの格子構造である可能性が捨てきれない」と。




 大島は最初、笑った。




 オカルトやん。




 しかし笑いながらも、最後まで見た。そして次の動画も見た。また次も。気づけば夜明けになっていた。




 頭の中で、何かが静かに、しかし確実に、ずれていた。








 それから数日後、ニュースが飛び込んできた。




 アメリカの巨大テック企業が、量子コンピュータを用いた「人類文明シミュレーション・プロジェクト」を正式に発表したのだ。発表資料の映像には、画面の中の街を歩く無数の人影が映っていた。彼らはAGIによって生成された自律型の存在で、独自の言語を発達させ、宗教を持ち、戦争を起こし、テクノロジーを発明していた。




 インタビューに答えたプロジェクトの主任研究員は、こともなげに言った。「彼らは、自分たちが存在しているシステムの外側を認識する術を持ちません。彼らにとって、それが世界のすべてです」




 大島はそのニュースを三度読み返した後、スマートフォンを机に伏せた。




 俺と何が違う。




 その問いが、頭の中に居座った。追い払おうとしても、消えなかった。風呂の中でも、飯を食いながらも、眠れない夜にも。




 肉体がある。痛みがある。腹も減る。だから俺は本物だ。──本当に? 彼らだって、自分の感覚をリアルだと思っているはずだ。痛みも、飢えも、恐怖も。それを「偽物だ」と判定できる根拠が、どこにある?




 やがて大島は、その問いに答えようとするのをやめた。




 代わりに、別の問いを立てた。




 ──だったら、どう生きる?








 そこから先は、早かった。




 三千万円の貯金を元手に、大島はAIと組んだ。画像生成、シナリオ分岐、音声合成。当時急速に需要が伸びていたニッチな市場向けのビジュアルノベルを、ほぼ一人で量産するシステムを組み上げた。眠る時間を削り、食事はコンビニで済ませ、二年間、ひたすらコードを書き続けた。




 三千万が五千万になった。




 五千万が一億を超えた頃、大島はある異変に気づいた。




 収益の伸びに、不自然な「波」があった。統計的にあり得ない確率で、ある特定の投資タイミングが「当たり」続けた。ランダムであるはずの市場に、周期性があった。まるで、乱数のシードが固定されているかのように。




 大島は半年かけて、そのパターンを解析した。




 そして確信した。




 この経済システムには、穴がある。




 穴というより、それは「癖」だった。完全にランダムに見えて、実は偏りがある。それは設計者の意図なのか、それとも莫大な計算量を節約するための簡略化なのか。どちらにせよ、大島にはもはやどうでもよかった。




 その「癖」を徹底的に突いて、資産は一億八千万円を超えた。




 そして大島は、金を使いはじめた。








 倉庫の奥には、白い部屋がある。




 外気と遮断されたその空間には、精密な温度管理システムと、横たわるための医療グレードのリクライニングチェア、そして点滴スタンドが二本。自動で栄養剤と水分を補給するシステムと、心拍・血圧・体温を常時モニタリングするセンサー群が、まるで手術室のように整然と配置されていた。総額三千万円。




 フルダイブ型の没入装置は、市販品を改造したものだ。数年前から「ダイブ中の体調不良による死亡事故」が報告されるようになった。長時間の神経接続が引き起こす脳へのフィードバック過負荷。あるいは、仮想空間内の「主観時間の加速」に精神が追いつけなくなる現象。死因はいずれも、現実世界の肉体が放置されたことによる衰弱か、脳への過剰な電気信号だった。




 大島はその対策に金をかけた。死ぬつもりはなかった。




 少なくとも、まだ。








 起動予定は、明日の午前二時。




 システムの最終チェックを終えた大島は、サーバールームの壁に背を預けて、缶コーヒーを一口飲んだ。




 彼が構築したシミュレーターの中には、二〇〇〇年代の大阪が広がっている。




 バブルの残り香と不況の入り混じった、あの時代の大阪。ミナミの喧騒、西成の路地、御堂筋を吹き抜ける冬の風。十万を超える自律型のエージェントたちが、今この瞬間も、それぞれの人生を生きている。




 彼らは互いを知らない創造主のことも知らない。




 ただ、生きている。腹を減らし、金に困り、誰かを憎み、誰かを愛している。




 大島はシミュレーターを「外から観察する」つもりはなかった。




 中に入る。




 一人の人間として、何も持たずに。創造主の特権など要らない。それでは意味がない。シミュレーターが本当に「リアル」かどうかを確かめるには、自分自身がその理不尽さの中に飛び込むしかない。




 設定を確認する。アバターの年齢、四十代。職歴、なし同然。所持金、日本円で預金300万円ほど。コネ、ゼロ。




 縛りプレイだ。




 大島は小さく笑った。笑いながら、少しだけ怖かった。

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