琳
私は会社のビルの屋上にいた。
眼下には、街灯に照らされた車がいくつも並び、鈍く光るボディがまるで私を誘うように揺れていた。
一時間休憩も取れない。
サービス残業は当たり前。
大卒でも「女だから」と笑われる社風。
どれだけ成果を出しても、手柄は同期や上司のものになる。
男女平等なんて、どこの世界の話だ。
特にこの会社では。
忙殺の日々の果てに、追い打ちのように知らされた彼氏の浮気。
ブラック企業に身を捧げ、会う時間も作れなかった私が悪いのか。
努力しても報われない。
愛しても裏切られる。
私はこの世界に、本当に必要とされているのだろうか。
濁った思考に引かれるように、私はフェンスを越えた。
駐車場はこの時間ほとんど無人。
落ちても巻き込むのは車くらい。
「それくらい……許されるよね?」
呟きは夜に溶けた。
両手を広げる。
新しい世界があるなら、そっちへ行きたい。
そう思って、私は身を投げた。
――次の瞬間。
「――んがっ!」
鼻に走る激痛。
階段につまずいたような衝撃。
ばしゃっ、と水が飛び散る音。
「こら!何やってんだい!?このグズが!」
怒鳴り声。
……え?
死後の世界、早くない?
私はよろよろと立ち上がり、鼻を押さえた。
あ、鼻血。
状況とは裏腹に、頭は妙に冷静だった。
石段。
両手には桶。
水はこぼれ、膝は擦りむけている。
ほんの一瞬、後頭部に衝撃。
振り向く間もなく、体格のいい年嵩の女が拳を振り下ろした。
「何やってんだい!新入り!早く桶の水を汲み直しておいで!」
さらに振りかぶる拳を、私は反射的にかわす。
え、避けた私すごくない?
とりあえず桶を拾い、清水の流れる人工の水路へ向かう。
水を汲み、ふと気づく。
――私の手、こんなに荒れてたっけ?
水仕事でひび割れた指。
赤く裂けた皮膚。
水面に映った顔を見て、息が止まった。
そこにいたのは、28歳OL・水瀬美咲ではない。
真っ黒な長い髪を簡素に束ねた、黒目がちな少女。
頬は痩せ、日に焼け、あどけなさが残る。
「……なにこれ」
驚きで再度桶を水路に落とす。
周囲を見回す。
石造りの建物。
水路のある石畳。
同じ粗末な衣を着た女たちが列を作り、洗濯場らしき場所へ歩いている。
監督役らしき女が前後を固めている。
どう見ても、古代王朝の城内使用人エリア。
映画のロケ?
ドッキリ?
いや――鼻の痛みがリアルすぎる。
「新入りがまたサボりやがって!これで分からせてやろうかね!」
さっきの体格のいい女が、棒を持って迫ってくる。
身の危険を感じた私は、水を汲み直し、とりあえず列の最後尾へ滑り込んだ。
鼻血を出し、膝を引きずりながら。
女は私の背後に立ち、怒鳴る。
「今年の新入りはノロマやグズばっかりだ!今日の洗濯が終わらなきゃ、全員臀が赤く染まるまで叩き倒してやるからね!」
ああ。
これ、ロケじゃない。
ブラック企業よりブラックな匂いがする。
列が動き出す。
石畳を歩きながら、私は必死に思考を整理した。
飛び降りた。
死んだ、はず。
目が覚めたら、古代王朝っぽい世界。
水仕事の下っ端。
どうやら“新入り”。
そして、殴られるのがデフォルト。
つまり――
「……転生?」
口の中で小さく呟く。
水面に映った少女の顔を思い出す。
この子の名前は?
身分は?
ここはどこ?
だが一つだけ、はっきりしていることがある。
私はもう、水瀬美咲ではない。
ここで生きるしかない。
洗濯場に着くと、大きな石の桶が並び、山のような衣が積まれていた。
重労働確定。
前世の私なら、絶望していたかもしれない。
でも――
不思議と、胸の奥に小さな火が灯る。
ブラック企業で叩き上げられた、業務効率化スキル。
理不尽耐性。
観察力。
(……これ、仕組みは同じじゃない?)
人を締め付ける監督役。
非効率な作業工程。
下にしわ寄せがくる構造。
時代が違うだけ。
「後宮……とか?」
遠くにそびえる宮殿を見上げる。
ここが王城なら、私はその最底辺。
下女。
前世では、どれだけ働いても報われなかった。
なら――この世界では。
「使い潰される側で終わる気はない」
小さく、呟く。
その瞬間、背後から怒号。
「ぼさっとするな新入り!さっさと洗え!」
棒が振り下ろされる。
私は洗濯物を抱えながら、心の中で笑った。
飛び降りた先が地獄でも。
どうせなら――
――ここを攻略してやる!
古代王朝の城の片隅、洗濯場。
下女として転生した私は、まだ知らない。
やがてこの城の頂点に立つ男――若き皇帝と出会い、
後宮の構造そのものを揺るがす存在になることを。
今はただ、鼻血を拭いながら思う。
「……ここ、会社よりブラックじゃない?」
――ブラック職場…まさか転生してまで、職場がブラックなんて…
そんな自嘲じみた想いが胸をよぎる。
しかし、こちとらブラック企業に10年以上務めあげた経験がある。
――経験者舐めんな…一回目は逃げたけど、もう逃げない。
こんなふざけた世界絶対変えてやる…
私は深く決心する。
ここでの私の名前は"琳"らしい。
齢17歳位らしい。
らしいというのはこの世界に迷い込んで、多分この世界の私と1番仲が良いと思われる"桃児"に聞いたからだ。
「阿琳(ありん・りんちゃんの意)、今日はどうしたの?普段あんな失敗しないのに、具合でも悪い?」
と、桃児は濡れた手で、私の額を触り、自分の額にも手を当て、熱を測った。
私はそっと桃児のてを払って
「なんでもないよ。ちょっと風邪をひいたみたい」
と言いながら、愛想笑いをうかべて、何とか誤魔化した。
――まさか、中身28歳の異世界転生OLとは言えないよな。
心の中で私はひっそり笑った。
私の部署は宮廷内で、最も過酷で、キツイ仕事『洗濯場』だった。
後宮の、女官長から、宦官、妃たちの服は全部ここで洗われる。
実際とんでもない量の洗濯物がひっきりなしに運ばれてくる。
私も桃児も、監督女官の監視の目や指示を気にしながら、一心不乱に洗っていた。
「モタモタしてんじゃないよ!しっかり仕事しないと飯抜きだからね!」
時々怒号が飛ぶ。
洗濯をしていると
「琳!桃児!こっち来な!」
と、監督女官に呼ばれ、私たちは洗い場から急いで、濡れてを前掛けの裾で手を拭きながら、監督女官の所へ行った。
監督女官は極めて慎重に私には白や銀糸で縁どったほかの洗濯物とは明らかに質が違う洗濯物を恭しく手渡してきた。
桃児は青や白銀の縁取りがされた衣だ。
桃児が、震える手で受け取る。
素材から見て、位の高い人の衣だろう。
監督女官が神妙な面持ちで言った。
「青龍妃様と白虎妃様の衣だ。素早く、丁寧に洗いな!汚れ残しなどありえないからね!あと、間違っても傷つけるんじゃないよ!そうなったら、棒叩きじゃすまないからね!手首のひとつ無くなる覚悟で洗いな!」
監督女官はしっしと追いやるように手を振った。
「うわぁ…四妃様の衣なんて初めて触るよ。阿琳、怖いよー」
持った衣を震える手で運びながら、桃児が緊張した面持ちで言った。
四妃とは青龍妃・朱雀妃・玄武妃・白虎妃と、四神になぞらえた、皇后のしたの位の高級妃だ。
「気をつけて洗おう」
私は元気づける様に桃児に言うと、二人で特別洗い場に向かった。
洗い場は皇后の衣を洗う場所と、四妃の衣を洗う場所、ほかの上級妃の衣を洗う場所、中級妃、下級妃、そして女官長の衣を洗う場と、それ以下の階級のものが現れる場所と区分けされていた。
もちろん、桶も洗剤となる薬剤も階級事に使う物が違う。
私達は四妃の洗い場に向かった。
自分事や、他のことはまだ完全に把握しきれてないが、"琳"になってから、この世界の大まかなことはそれとなく桃児に聞いて把握した。
このまずこの国は蒼煌帝国。
蒼い麒麟の末裔が皇帝となり、今の蒼麟帝は12代皇帝である。
それから皇后、四妃、上級妃から中級妃、下級妃と女官や下女たちを合わせたら1200~300はいるだろう。
桃児の話を聞きながら、"琳"の知識も少しずつ流れてきていた。
私は白虎妃の衣を洗い、桃児は青龍妃の衣を丁寧かつ慎重に洗っていた。
そんな時、ちょっとした事件が起こる。
ピリ…
小さな音が隣の桶の方から聞こえた。
見ると、桃児が真っ青になっている。
桃児の広げた衣の裾が、少しだけほつれていた。
桶の中がささくれていて、衣が引っかかったのだ。
様子を見に来ていた監督女官がすっ飛んでくる。
青くなって、呆然と衣を掲げる桃児と、衣のほつれを交互に見て、監督女官の顔も青くなる。
「青龍妃様の衣が…」
「も…申し訳ございません…わたし…」
桃児はみるみる青い顔から白い顔に変化し、目に涙を溜める。
「あんた…とんでもないことをしてくれたね…覚悟しな!」
監督女官が、棒を桃児の頭目掛けて思いっきり振りかぶった。
「待ってください!」
私は桃児を庇うように両手を広げ、監督女官と桃児の間に割って入った
「何すんだい!?あんたも頭かち割られたいのかい!?」
怒り狂う監督女官に私の声は高ぶった。
「今彼女を殴ったら、血が飛び、衣は取り返しのつかないことになります。そうしたら、あなたもタダじゃ済ませんよ!」
私の言葉に棒を振り上げた監督女官は、ハッとなって、棒を取り落とす。
私は桃児から衣を取って、ほつれた所を慎重に見た。
ささくれが小さかったのか、幸い1本細い糸が出た程度で、大したことは無い。
私は自分の前掛けをま探った。
あった!
多分桶のささくれや何らかの事故で衣がほつれたり、衣装に傷が着くのはこの職場ではありうることだ。下女達は自分の身を守るため、対策用に針と糸は常備してるはず。
私は針を1本だし、青龍妃の衣のほつれに慎重に糸を通して、衣を縫った。
縫い目をそっと触る。
大丈夫!平坦だ。
私は修復した衣を監督女官に見せた。
「衣はこれで大丈夫です。
見てください。縫い目も目立たず、表面も凹凸がありません。」
棒を取り落とし、監督女官が修復部分をまじまじと見つめた。
「今回の件は桶のささくれが原因です。この件で桃児を断罪したら、設備点検不行き届きで、あなたも洗濯場全員罰せられますよ!?いいんですか?」
私が挑む様に監督女官を見上げた。
桃児は震え泣きながら私たちのやり取りを見守っている。
私の言葉を聞いて、納得したのか監督女官が顔をあげる。
「これなら黙ってればどうにかなりそうだね…」
こちとらスーツの綻び繕って10数年だぞ!舐めんな!
と心で思いながら、監督女官を更に詰める様に見つめ
「ここは、これで納めて、今後こんな事故が起きないように各桶のささくれや、備品の点検と修復をしたらどうですか?」
私の正論と己の利益を監督女官は計算して帳尻を合わせたのだろう。
監督女官は
「今回は見逃してやるよ!次から気をつけな!」
と言って
「備品の点検の宦官はどこだい!洗濯が終わったら、洗い場全体の備品の点検と修復をしな!手を抜いたらタダじゃおかないよ!」
と怒鳴り散らして、その場を去って行った。
「うわぁ~ん!阿琳!ありがとう」
桃児が泣きながら、私に抱きついてきた。
私は桃児を抱きしめて、頭をぽんぽんと撫でてあげた。
「大丈夫だよ。さ!残りも終わらせちゃお!」
桃児は頷き、私たちは四妃の衣を洗い上げた。
「ほぅ…面白いものが見れたな」
この一連の事件を、壁の影で聞いてる素服姿の人物がいた事を私は何も知らなかった。
洗濯場に、夕刻の淡い橙色の光が差し込む。
四妃の衣を干し終え、桶の水を替えようとしたその時だった。
背後から、低く落ち着いた声が響く。
「先ほどの縫い、見事だったな」
びくり、と肩が跳ねる。
振り返ると、そこに立っていたのは質素な素服の男。
飾り気のない深い紺の衣だが、布地は明らかに上質。
その半歩後ろに、同じく素服姿の声をかけてきた男性より少し年上風の男が控えている。
(……誰?)
下級宦官、には見えない。
けれど高位の人間が、こんな場所に?
私はとっさに頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せしました」
桃児も慌てて平伏する。
後ろの男が静かに言う。
「ほう。“お見苦しい”とは?」
声は柔らかいが、探るような響き。
私は一瞬迷い、それでも答えた。
「本来なら失態として処罰される場面でしたので。騒ぎ立てるものではありません」
素服の男が小さく笑った。
「だが、お前は騒ぎを止めた」
「止めなければ、もっと大きな問題になりました」
私は顔を上げずに続ける。
「血が衣に飛べば、隠せません。桶の欠陥が露見すれば、洗濯場全体の責任になります。……ならば、繕えるうちに繕う方が得策です」
――沈黙。
水の滴る音だけが響く。紺の素服の男に控えてた男性が口を開く。
「自分が罰を受ける可能性は考えなかったのか?」
考えないわけないでしょ。
でも口に出すのは別。
「……怖くないわけではありません」
私は正直に言う。
「ですが、不合理な罰を受け入れ続ければ、ここは変わりません」
桃児が不安げに私の袖を引く。
言い過ぎた?
しかし素服の男は怒るどころか、興味深げに私を見つめていた。
「変える、と?」
「はい」
思わず顔を上げる。
彼の瞳は、夜のように深い。
「桶の点検ひとつで防げる事故なら、最初から防ぐべきです。叩く前に整える。それだけで、無駄な血も涙も減ります」
男はわずかに目を細める。
「ずいぶんと大きなことを言うな、洗濯場の下女」
「身分は関係ありません」
言ってから、しまったと思う。桃児が青ざめる。
だが後ろの男がくすりと笑った。
「面白い娘ですな」
素服の男は私の手元を見る。
「その針、常に持ち歩いているのか?」
「はい。……自分の身を守るために」
「身を守る?」
「衣のほつれは、誰のせいにでもできますから」
一瞬、空気が張り詰める。
素服の男の視線が鋭くなる。
「ずいぶんと、この場所を理解しているな」
「……長く働けば、嫌でも覚えます」
本当は人生二周目の社会人経験だけど…
男は静かに歩み寄る。
桃児が震える。私は動かない。
「名は」
「琳、と申します」
「そうか、琳」
低く、名前を繰り返す。
それだけで胸が妙に騒ぐ。
後ろの男が時間を告げるように咳払いをする。
「そろそろ戻らねば」
素服の男はわずかに頷いた。そして去り際、振り返る。
「桶の点検、必ず行われるだろう」
私は目を瞬いた。
「……え?」
「お前の言葉は、無駄にはならぬ」
その声音は確信に満ちていた。
どうして、そんな言い方を…?
後ろの男が静かに私を見る。
「琳殿。あまり目立ち過ぎぬことです」
穏やかな忠告。
しかしその目は、何かを測っている。
二人は洗濯場を後にした。
桃児が小声でささやく。
「阿琳……今の人、ただの宦官じゃないよね?」
「……うん」
胸の奥がざわつく。
ただの見物人じゃない。
あの視線、あの余裕。
あの“必ず行われる”という確信。
まさか……
でも、そんなはずない。
私はただの下女。
相手は――
「お前の言葉は、無駄にはならぬ」
去り際に聞こえたあの声が、耳に残る。
その頃、洗濯場を離れた廊下。
後ろの男が静かに問う。
「いかがでしたか」
素服の男は薄く笑う。
「叩く前に整える、か」
一瞬、目を伏せる。
「……ああいう者が、朕の目の届かぬ場所にいるとはな」
後ろの男は恭しく頭を下げた。
「いかがなさいますか」
男は歩みを止めない。
「まずは洗濯場の点検だ」
そして小さく付け加える。
「琳、か。覚えておこう」
その名が、静かな夜の廊下に溶けた。
――こうして、下女・琳は知らぬまま、蒼煌帝国の頂点に立つ男の記憶に刻まれたのだった。




