良薬は口に苦し、毒薬は口に甘し
「そ、そんなぁ!?」
僕の情けない悲鳴が、ガラクタだらけの研究室に虚しく響き渡る。
つい先ほど、魔力増幅器の暴走という絶体絶命の危機を乗り越えたばかりだというのに。
目の前では、僕の主人であるファウスティナ様が、悪戯っぽく片目をつむりながら、一つの小さなフラスコを僕に突きつけていた。
「なに、そんなに嫌そうな顔をするんじゃないわよ。これはさっきの『ドジ』で貴重なデータを提供してくれた、君への『褒美』なんだから」
「褒美、ですか……?」
「そうよ。光栄に思いなさいな。私が新しく開発した『活力が三倍になる薬(副作用不明)』の、記念すべき被験体第一号に任命してあげる」
ファウスティナ様はにこやかに言うが、その笑顔が悪魔のそれにしか見えないのはなぜだろうか。
(副作用不明)って、カッコ書きでさらっと言ってるけど、そこが一番重要な問題点じゃないか!
数時間前、僕はファウスティナ様が開発した魔力増幅器の暴走という、赤文字の【死亡フラグ】を、機転を利かせた(つもりの)事故を装うことで、なんとか回避したばかりだ。 心臓はまだバクバクと嫌な音を立てているし、全身からは冷や汗が止まらない。 それなのに、九死に一生を得た僕を待っていたのは、安らぎの休息ではなく、新たな罰ゲームだった。
「ご辞退s「却下」」
食い気味に、そして一切の情け容赦なく、僕のささやかな抵抗は切り捨てられる。
ファウスティナ様は僕の手を取り、無理やりフラスコを握らせた。ひんやりとしたガラスの感触が、まるで死刑宣告のように感じられる。
中に入っている液体は、蜂蜜のようにとろりとした黄金色で、甘く芳しい香りを放っていた。見た目だけなら高級な滋養強壮薬のようだけど、僕にはわかる。ファウスティナ様の作るものに限って、見た目通りなんてことは絶対にない。
「さあ、遠慮しないで一気に飲み干しなさい。君の体の変化を、魔力値、心拍数、体温、発汗量、その他諸々、秒単位で記録するんだから。貴重なデータを取りこぼしたら許さないわよ」
ファウスティナ様は水晶のペンと記録用の羊皮紙を構え、その目は既に研究者のそれに切り替わっている。完全に獲物を前にした肉食獣の目だ。
もう逃げられない。僕は観念して、手の中のフラスコに視線を落とした。
その瞬間だった。
黄金色の液体が満たされたフラスコの上部に、陽炎のように文字がゆらりと浮かび上がる。
それは、さっき見た血のような赤色ではなかった。毒々しい胆汁のような、不吉な黄色。
【謎の薬による急性中毒死】
「……っ!」
またか!
僕は声にならない悲鳴を上げた。またしても【死亡フラグ】だ。
赤色ではないだけマシかもしれないが、黄色は「かなりの可能性で死亡する危機」を示す危険信号だ。灰色の「低い可能性」とはわけが違う。下手をすれば本当に死ぬ。
というか【中毒死】って、原因が完全にこの薬じゃないか!
『活力が三倍になる薬』じゃなくて、ただの毒薬だったとは。
「どうしたの?早く飲まないと、効果が薄れちゃうじゃない」
「い、いえ、その、心の準備が……」
ファウスティナ様の催促に、僕は必死で言い訳を考える。
監視の目は光っている。こっそり床に捨てるなんて真似は不可能だ。飲んだふりも、この人の前では通用しないだろう。
どうする?このまま飲めば、高い確率で僕は死ぬ。
でも飲まなくても、命令違反で殺されるかもしれない。
どちらにせよ、僕の未来は真っ暗だ。
いや、まだだ。まだ諦めるな。
僕の武器は、この最悪の魔法と、なけなしの知識だけだ。
考えろ。この絶望的な状況を覆す、最善の一手を。
「……ファウスティナ様」
「なあに?」
「飲む前に、お水を一杯、いただいてもよろしいでしょうか。喉が渇いていて、これほど貴重な薬を喉に詰まらせでもしたら、申し訳が立ちませんから」
我ながら、よくこんな状況でスラスラと言葉が出てきたものだと感心する。
ファウスティナ様は眉をひそめ、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「はぁ?水くらい自分で取りに行きなさいよ、この役立たず。まったく、貴重なデータの記録が遅れるじゃない」
「も、申し訳ありません!すぐに取ってきます!」
叱責はされたが、むしろ好都合だった。
僕はファウスティナ様に背を向け、研究室の隅にある水差しへ向かう。その数歩の間に、僕は全ての意識を集中させ、フラスコの中身を鑑定した。
(甘く、少し薬草のような香り……主成分はなんだ?魔薬学の知識を総動員しろ!)
脳内の知識を高速で検索する。
黄金色の液体、粘性、香り……。いくつかの候補が浮かび上がる。
その中で、最も可能性が高いのは……「リント虫の体液」と「炎トカゲの涙」の混合物。
どちらも単体では優れた滋養強壮の効果を持つが、特定の触媒――例えば、「月光草の花粉」なんかと混ざると、即効性の猛毒に変化するはずだ。
ファウスティナ様なら、隠し味と称して平気でそういう危険なものを混ぜ込むだろう。
つまり、この薬はほぼ間違いなく毒。
中和剤は?研究室を見渡すが、そんな都合の良いものがすぐに見つかるはずもない。
万事休すか……?
いや、待て。一つだけ、心当たりがある。
数ヶ月前、ファウスティナ様が「どんな魔薬の効果も初期化してしまう、面白みのない失敗作」とぼやきながら、ゴミ箱に捨てていたスライム状の物質。
僕はそれを、何かに使えるかもしれないと、こっそり小さな革袋に入れて懐に隠し持っていたのだ。
あの時の僕は、ただ貧乏性で「もったいない」と思っただけだったけど、まさかこんな形で役に立つとは。
僕はファウスティナ様に気づかれないよう、水差しに手を伸ばすふりをしながら、慎重に懐から革袋を取り出し、中身――「中和スライムの粘液」を指先に少量だけ付着させる。
「お待たせいたしました」
僕は平静を装って水の入ったカップを机に置き、それから覚悟を決めてフラスコに手を伸ばした。
そして、フラスコを受け取るふりをしながら、粘液をつけた指先を黄金色の液体の中に、一瞬だけ滑り込ませる。
(頼む、間に合ってくれ……!)
中和には数秒かかるはずだ。効果が不完全なら、僕の体は……。
でも、もう後には引けない。
「では、いただきます」
僕は意を決して、フラスコを一気に煽った。
口の中に広がるのは、拍子抜けするほど甘くてフルーティーな味。毒の味なんて、全くしない。
ごくり、と喉を鳴らして飲み干す。
ファウスティナ様は、僕の体の変化を見逃すまいと、食い入るように観察している。
一秒、二秒、三秒……。
しかし、僕の体には何も変化が起きなかった。
活力がみなぎるどころか、少しもお腹が膨れない、ただの美味しいジュースを飲んだだけ、という感じだ。
フラスコの上に浮かんでいた黄色の【死亡フラグ】が、いつの間にか掻き消えていることに、僕は気づいていた。
「……おかしいわね。何も起きないじゃない」
ファウスティナ様は心底つまらなそうに呟くと、僕から空のフラスコをひったくり、残った液体を分析し始めた。
「魔力反応がほとんど消失してる……?ああ、なるほど。配合の比率をコンマ一ミリ間違えたせいで、ただの栄養ドリンクになっちゃったのね。ちぇっ、面白くないの」
どうやら中和スライムの効果で、薬の成分がただの糖分か何かに分解されたらしい。
ファウスティナ様は盛大にため息をつくと、羊皮紙に「実験は失敗」と殴り書きした。
「は、はは……」
助かった……!
全身から力が抜け、僕はその場にへたり込みそうになる。
今回もなんとか生き延びることができた。
しかし、僕の安堵は、次のファウスティナ様の言葉によって一瞬で打ち砕かれることになる。
「こうなったら、次は『活力が五倍になる薬』の開発ね!レオ、もちろん付き合うでしょ?今度こそ、もっと面白くてスリリングなデータ、期待してるわよ!」
そう言って、ファウスティナ様は再び目を輝かせ、新たな研究の準備を始めた。
結局、何も解決していない。
一つの死亡フラグを回避したところで、すぐに次の死亡フラグがやってくるだけ。
僕の平穏な日常は、一体いつになったら訪れるのだろうか。
遠い目に涙を浮かべる僕の耳には、ファウスティナ様の楽しそうな鼻歌だけが、やけにクリアに響いていた。




