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ミレナの話と決意と

「リーザは紅茶にたっぷりミルクを入れたのが好きだから、多めに入れてくれるかい?」


「まぁ、ミレナ様。覚えていてくださったのですね」


「覚えて当たり前だろう。なにせ、将来娘になる可愛い女の子の好みだ」


「そう、ですわね……」


 王妃の私室で、優秀な侍女達が急遽整えた二人のお茶会は和やかに始まった。

 二人は性格は違うが不思議と馬が合った。王妃教育を通じて関わることも多く、その関係はすこぶる良好だった。

 エリザベートはミルクをたっぷり入れてもらった紅茶を一口飲み、ほっと息をつく。

 ミレナは自分の紅茶にブランデーを入れていた。酒に強い彼女はその程度の量では酔わないことを知っているエリザベートは気にせず、自分の分をゆっくり堪能する。


 侍女達はお茶とお菓子のセッティングを済ますとすぐに退出し、部屋の中は二人きりとなる。

  護衛の騎士は部屋の前で待機している。エリザベートがミレナを傷つけることなど出来ないとわかっているからだろう。なにせ、護衛よりも圧倒的にミレナの方が強い。


 ミレナは割合としてはブランデーの方が多いだろう紅茶を一気に呷った。

 ふぅ、とため息をつく表情には少し迷いが見えたが、瞬きの間に消え去った。


「さて、リーザは知っているだろうがあたしは貴族的な言い回しが得意じゃない。単刀直入に聞く。……アランとはうまくいっていないのかい?」


 エリザベートは紅茶を眺めた。ミルクたっぷりの優しい味わいの紅茶を。

 先ほどのアランとのお茶会で出された紅茶は香り高く渋みがきついものだった。エリザベートの好みと真逆の紅茶だ。エリザベートは、それがアランの好みであるかすら知らなかった。


 そう、二人は婚約者でありながら、紅茶の好みすら知らない間柄だった。


「……アラン様はお忙しいようで、交流の茶会においで下さりますが、あまりお話しできておりません」


 エリザベートは王家から婚約の打診があった時、これまでの人生で一番喜んだ。

 世界が薔薇色に色づいていくようだった。初めて自分を褒めてくれた人、初めて恋をした人と結ばれる、なんて素敵なことだろうか。

 初の顔合わせの時は緊張しすぎて心臓が痛い程に鼓動を打っていた。今後定期的な交流の機会があると知った時は天にも昇る程嬉しかった。


 だが、喜びに顔を輝かせるエリザベートと違い、アランは無表情で淡々と受け入れていた。

 お茶会に来ても、エリザベートの話に困ったように相槌を打つだけで、ほとんど自分の話をしてくることはない。

 しかも途中でいつも侍従の少年が呼びに来る。その時間はお茶会を経るごとに早くなっており、エリザベートとの交流の時間はどんどん短くなっていっていた。

 何より、アランは立ち去る時にホッとした顔をするのだ。エリザベートとの時間が苦痛だと言わんばかりのその顔に、いつも心が切り裂かれていた。


 ぽつぽつと話すエリザベートの言葉を聞き、ミレナは天を仰いだ。


「……本当にすまない。失念していたが、アランは今まで周りに年頃の令嬢がほとんどいなかったんだ。リーザみたいな綺麗なお嬢さんと関わったことがないから、緊張してるんだろう」


「そう、なのでしょうか。……私、お世辞にも綺麗とは言い難いですし、アラン様をがっかりさせてしまったのではないでしょうか」


「? 何言ってるんだい? リーザは綺麗だよ?」


 不思議そうに首を傾げたミレナに、エリザベートは苦く笑った。

 今までの周囲からの扱いはエリザベートの心に深く傷を残していた。初めて美しいと言ってくれたはずのアランともぎくしゃくしている。彼が美しいと褒めてくれたのは、初めて会ったあの時だけだ。

 今でも努力は続けている。王妃教育も順調すぎる程で、すでに王妃となってもやっていけるとすら言われている。だが、肝心のアランとの関係がうまくいっていないのだ。自分のような平凡な顔の人間が妻になるのが嫌なのではないかと、実は密かに不安に思っていた。


「お気になさらないでください。私自身のことですもの、どの程度かなど把握しておりますわ」


「本当に、リーザは綺麗だと思うけどねぇ。今でも別嬪さんだけど、きっと大人になったら目を見張るような美人さんになるさ。……何より、あたしみたいな醜い傷もないし、ね」


 自嘲するように笑ったミレナの頬には、大きな十字傷があった。

 目元まで達するその傷は、あともう少し深ければ片目を失っていたと医者に言われた。それだけではない。ミレナの全身は傷跡だらけだ。あと一歩間違えれば命を失っていただろう傷も、無数にある。傷物王妃と誹る者も中にはいるほどだ。


「そんな、ミレナ様の傷は国を護る為に懸命に戦われた証拠です! 醜いなんて、そんなこと思ったこともありませんわ!!」


 思わず立ち上がって必死に訴えるエリザベートに、ミレナは柔らかく微笑んだ。


「ふふ、リーザならそう言ってくれると思ったよ。あたしの気持ち、わかってくれたかい?」


 エリザベートは驚いたように目を丸くする。大人しく席に座り直すと、素直に謝った。


「……申し訳ありません。自分を卑下しすぎておりました」


 確かにアランに相手にされていない不安からか、意固地になっていたようだ。ミレナは裏表のない性格だし、本心から褒めていてくれたのだろう。少し落ち着いたからか、今は素直に受け入れられる。

 だが、状況が改善されたわけではない。ミレナに認められても、肝心のアランはどう思っているのかわからないのだ。


 またエリザベートが顔を俯けたのを見て、ミレナは少し困った顔をした。ガシガシと頭を搔き、これ言ったら怒られるかなー等ブツブツ呟いている。やがて、諦めたようにため息をつくと、姿勢を正し座り直した。


「ーーエリザベート、王妃として、君に話したいことがある」


 空気が変わった。

 真剣な顔をしたミレナからピンと張り詰めた空気が流れてくるのを感じる。王妃教育を受け、そういった威圧的な空気に耐性があるはずのエリザベートでも少し息苦しさを感じた。

 それでも気丈に顔をあげ、話を聞く体制になったエリザベートにミレナは少しだけ微笑んだ。


「先の戦争のことは、聞いているね?」


「はい。親からも聞いておりますし、王妃教育でも習いました」


 エリザベートが産まれる少し前、この国は北の大国から突如攻め入られた。

 その時期は世界的にしばらく異常な寒さが続いていた。その国は諸にその影響を受け農産物の不作が続き、貴族や王族ですら食べるものに困る有様だったそうだ。

 エリザベートの国では幸い少し不作気味ではあったが食料に困ることはなかった。

 それに目を付け、食料略奪の為に北の大国は攻めてきたのだ。


「酷かったよ。あたしは出産が終わったばかりで、最初の内は動けなかったから聞いた話だけどね」


 宣戦布告もなしに突如攻め入った大国は、略奪の限りを尽くしたという。大国よりもマシとはいえ、この国でも北の方は実りが少なかった。その僅かな食料もすべて奪われ、逃げ出すことも出来ず散った民も多かったという。

 ミレナは北の辺境伯家の出身だ。産後少ししてからに生まれ故郷の悲劇を聞いて、気絶しそうになったのを覚えている。


 飢えた大国の兵士達は凶悪だった。

 飢えて死ぬか、戦って少しでも何か食べて死ぬか。そんな状態だったから、大怪我を負っても全くひかず死ぬまで戦い抜いた。

 辺境伯軍も精強ではあったが、命を捨ててかかってくる大国軍には敵わず、徐々に圧されていたのだ。


「戦況は非常に悪かったんだ。ひっくり返すには、英雄が必要だった。どんな敵にも負けず、味方の拠り所となれる圧倒的な英雄が」


「……それが、ミレナ様ですわね。この国の民でミレナ様の武勇を知らない者はおりませんわ」


 絶望的な戦線に、突如綺羅星の如く現れたのがミレナだった。

 ミレナは王国軍を引き連れ戦場に来たかと思えば、自ら先頭に立ち戦い抜いた。敵の卑劣な罠も食い破り、自分よりも大きな敵の兵を赤子のようにあしらった。

 大怪我を負っても生還し味方を鼓舞し、一度戦場に立てば圧倒的な戦闘力で相手軍に大打撃を与える。絶望的な戦況を一人で覆したミレナを敬愛しない民などいない。エリザベートも、憧れの英雄に初めて会った時は舞い上がってしまった程だ。


 エリザベートの言葉を受け、ミレナはふっと儚げに笑う。ミレナのそんな弱々しい表情など初めて見たエリザベートは驚きに目を見開いた。


「そうだね。あたしが英雄になった。ならざるを得なかったからね。……でも、あたしは普通の女だった。お転婆だの男勝りだのは言われていたけど、大の男を相手取って勝てるような武力など持っていなかったんだ」


 それは、明らかにおかしかった。

 ミレナの武勇は嘘でもなんでもない。実際に一緒に戦った騎士達の中には王家の近衛兵もいて、今でもミレナに心酔している。戦う姿を見た者も多い。いくらなんでも、その人数を騙すことなんて出来ないはずだ。


「本当の話だよ。……さて、ここからは王家の秘奥に関わる話だ。聞いたら後戻りできないけど、覚悟はいいかい?」


 ひたと見据えられ、エリザベートは思わず息を吞む。

 真剣な眼差しに少し弱気になりそうだったが、不意にアランに手を取られ、微笑みかけられた時のことが頭を過った。あの時の熱を今でも覚えている。あの手を取れるのであれば、なんだって耐えられる気がした。


「勿論。私、婚約のお話をいただいた時から引き返す気などございません。覚悟は出来ておりますわ」


「……うん、リーザならそう言うと思っていたよ」


 優しく笑いかけたミレナは、今一度表情を引き締めた。

 つられてエリザベートも背筋を伸ばす。そんなエリザベートを、ミレナは複雑そうな目で眺めた。


「ーー我が王国には、開国当初からずっと仕えてくれている魔女がいるんだ。彼女が作った薬で、あたしと今の国王であるジェイドは、英雄に作り変えられた」


「作り、変える?」


「そうだよ。それまでのあたし達は普通の王太子夫婦だった。平時なら問題がなかっただろう、ごく普通のね」


 ミレナは瞳を伏せ、当時のことを思い出す。すべてが変わってしまった、きっかけの日を。



 ーー出産後しばらくしてから自分に会いに来た時のジェイドの顔を、ミレナは今でも鮮明に覚えている。


 ミレナとジェイドは幼馴染にして婚約者だった。お転婆なミレナに振り回されるようで、しっかり手綱を握っているジェイド。二人の相性は悪くなく、つつがなく婚約者時代を過ごし、結婚してすぐ子を授かり順風満帆だった。

 ミレナは体が丈夫だったのもあり出産も危なげなく終わった。本当に、順調だったのだ。北の大国さえ攻めてこなければ。


『北の大国が攻めてきた。今は義父上、辺境伯が抑えているが、それも長くは持たない。辺境伯家さえ落ちれば、一気に攻め入られるだろう。そうなれば、わが国が受ける打撃は計り知れない』


 出産後身体を休めていたミレナに会いに来たジェイドは、ボロボロだった。何日も寝ていないだろう濃い隈に、ぼさぼさの髪。身を清めることさえしていないのを香水か何かで誤魔化してるらしく、いつもの爽やかな匂いとは違う、噎せそうになるほど程濃い薬草の様な青臭い香り。

 そんな状況なのに、目だけは血走りギラギラとした異様な輝きに満ちていた。


『対抗策を考えた。だが、我が国は長年争いごととは無縁だった。訓練された兵でも、飢えた死兵を相手にしてはとても太刀打ちできないだろう。……旗印が、必要なんだ。カリスマに満ち、兵の絶対的支柱になれる、英雄が』


 生家を襲った悲劇に気を失いそうになるミレナだったが、異様な空気にそれすら出来ない。鬼気迫るジェイドの言葉を、ただ聞くことしか出来なかった。


『僕には適性がなかった。……英雄を支える、軍師にはなれるそうだ。でも、僕の軟弱な体では武勇に優れた英雄になることは絶対に出来ないらしい。すべて捧げてもどうにもならないと言われた。兵の全ても調べたが、精強な兵士になれたとしても、人々を突き動かすカリスマを発揮できるものはいなかった。……誰も、いなかったんだ。君以外はッ!!』


 血を吐くような叫びだった。

 こぼれ落ちる涙を拭うことさえせず、ジェイドはただじっとミレナを見つめる。その姿を、目に焼き付けようとするように。

 ミレナは不意に悟った。恐らく、ジェイドはこれ程ボロボロとなるまで必死にミレナを巻き込まない方法を探していたのだろう。だが何も見つからなかった。タイムリミットを迎え、だからこそ、今ここに立っている。


『僕は王族だ。……君でも、君だからこそ、僕は無辜の民を選ばなければならないんだ。ごめん、ごめんねミレナ……。僕と一緒に、国の為に死んでくれ』


 悲痛な声だった。この世の全てを呪うような、苦痛に満ちた言葉だった。

 その時の自分が何を感じたか、心を消費したミレナにはもうわからない。それらもすべて焚べてしまったから。


「……ミレナ様?」


 遠慮がちなエリザベートの呼び声に、ミレナの意識は過去から現在に戻る。

 黙り込んだミレナに不安になったのだろう。ミレナを見るエリザベートの瞳は揺れていた。


「すまない。ちょっと考え込んでしまった。えぇと、どこまで話したっけ。そうだ、英雄に作り変えられた話だったね」


 ミレナは頭を振って過去の残滓を飛ばした。今は自分の話ではない。彼女の、エリザベートの話だ。

 落ち着くために紅茶をおかわりし、ブランデーを注ぐ。

 ミレナは酒に異常なほど強い。というか、毒物に対する耐性が高いのだ。熊をも昏倒させる麻酔薬も効かなかった。これも英雄に作り変えられた時に手に入れた力の一つだ。これ位の酒、例え樽ごと飲み干したとしてもなんら問題はない。

 一気に紅茶を呷り、ぷは、と息をついたミレナをエリザベートはただじっと見ていた。緊張するエリザベートに、ミレナは下手くそな笑顔を向ける。


「魔女の薬は、この国を救う存在にあたしとジェイドを変えてくれた。文字通り、今までの自分を殺して作り変えたんだ。平凡な夫婦を救国の英雄にね。……当然、それには代償が必要だった。理を捻じ曲げた代償を、あたしとジェイドは支払ったんだ」


 エリザベートは固唾をのんで言葉の続きを待った。

 初めて聞く話だった。当然だ。こんな話を簡単に出来るわけがない。

 エリザベートの心には恐れと共に、ミレナがこの話をしてもいいと思う程信頼されているという事実への誇らしさが少しだけあった。


「ーー代償は、過去と未来。それまで育んできた恋心と、寿命を捧げたんだ。薬を飲むまでの記憶はあるけど、それだけだ。あった出来事を覚えていても、 付随するはずの感情は記憶ごと消えてしまった。その時に感じたことも何もかも、全部全部生命ごと燃やし尽くして、あたしとジェイドは国を救ったんだ」


 覚悟を決めていたはずなのに、作り変えられた後の目覚めは酷いものだった。

 心にぽっかりと穴が開いたようで、何をもっても埋められないであろうその空洞に発狂しそうになり、慌てて魔女の薬で心を麻痺させてもらった。

 隣で同じように処置をされたジェイドと目が合った時の絶望だけは麻痺した心でも感じられて、思わず失笑したのを覚えている。


 ーー恋をしていた。ミレナは、ジェイドに恋をしていたのだ。失うまで気付かなかったけれど、心の大半はきっとジェイドへの恋心で出来ていた。

 目が合うだけで心が弾んだ。一緒にいるだけで楽しかった。手に触れると火傷しそうな程熱くて恥ずかしかった。永遠に一緒だと誓った時の歓喜は一生忘れないだろうと思った。


 それらすべてをミレナは焚べてしまった。ジェイドと目が合った時に未練のように残滓が心を撫で、空洞の大きさを知らしめてきたのだ。

 隣で苦い顔をして胸を押さえていたジェイドも、恐らく一緒だったのだろう。絡んだ瞳に今まで確かにあったはずの熱は消え去っていて、無性に泣きたくなった。


「魔女殿が言うには、恋心はただの人間が持つ中では最大の熱量らしいよ。それと寿命は未来の可能性だから価値が高いらしい。その二つを捧げて、今のあたし達ーー英雄が、出来上がったんだ」


「……そん、な…………」


 あまりの事実に、エリザベートはどうしたらいいのかわからなかった。

 ミレナは慰めなど必要としていないのはわかる。でも、この国を救う代わりに自分の恋も命も差し出した彼女に何も出来ないのがたまらなく悔しく、歯痒かった。

 ぽろり、とエリザベートの瞳から涙が零れる。一度流れ落ちたらもう止められなかった。


 ぽろぽろと涙を零す少女をミレナは優しく胸に抱き締める。動き回るミレナのために作られた服は、水分をよく吸う。今回もまるで少女の涙を隠すように、すべて吸い取った。


「泣いてくれるのかい。優しいエリザベート」


「わたくし、わたくし……」


 エリザベートは胸は言葉にならない気持ちで埋め尽くされていた。

 アランへの恋心はエリザベートにとっての初めての宝物だ。あの微笑みを、手の温もりを思い出すだけで幸せな気持ちになれる。

 交流の機会が少なかろうと、傷つけられようと、それでもまだエリザベートの胸の中で煌々と輝くようなこの恋を失くすなんて考えられない。

 そんな恋を、ミレナは国の為に捧げたのだ。自分が泣いてもどうしようもないとわかっていても、涙が溢れてどうしようもなかった。


「エリザベートは本当にいい子だ。アランが選ぶだけあるよ」


 エリザベートの背を優しく撫でて宥めながら、ミレナは独り言のように呟いた。


「英雄になったあたしは、すぐに戦地に赴いた。それからは休む間もなく敵を殺して殺して殺しつくす日々だった。心は麻痺させてもらってたから、今思い返すと他人事みたいな感しなんだがね。まぁ、地獄だったよ」


 ふぅ、とミレナはか細いため息をついた。

 当時を思い返しているのか、瞳が複雑な色に揺らぐのを、エリザベートはぼんやりと見つめる。


「そんな状態だったからね。王都に戻れたのは情勢が安定した後、十年くらい経ったころだったかな。……産んでからほとんど顔を見ることすら出来なかったアランと会えたのは、その時だった」


 本来ならミレナが取り仕切るべきだったアランの身の回りのことはジェイドがやってくれていて、王家への忠誠心の高い乳母が不自由なく育ててくれていた。だが、それだけだ。

 乳母はあくまで臣下として接し、ジェイドは忙しすぎて時間が取れない。乳兄弟だけがずっと傍にいて、アランと二人で支えあうように過ごしてきたのだ。

 そんな中母親という人が突然現れたのだ。アランには戸惑いしかなかっただろう。


 だが、アランとしては初対面に等しい母親だったが、それでも受け入れようとしてくれた。

 お互いの話をしたりして、ぎこちないながらも歩み寄り分かり合おうとした。しかし離れていた月日で出来た溝は深すぎた。結局二人は親子というには遠すぎる、知人のような関係にしかなれなかったのだ。

 アランはミレナに自分の事をほとんど話さない。ジェイドには多少心を開いているようだが、それでも王と臣下といった印象が強く、あまりプライベートな話はしていないようだった。


 そんなアランが、初めて嬉しそうに話したのがエリザベートのことだった。


「アランがね、綺麗な手の、素敵なご令嬢に会えたと笑ってくれたんだ。努力家で優秀で、初めて尊敬できる女の子に会えたと。……エリザベートとの縁談を話した時も、とても嬉しそうだったんだよ。上手くいってるだろうと思い込んでいたから、リーザが悲しんでるのに気付くのが遅れてしまった。本当に、申し訳ない」


 真摯に謝られ、エリザベートの瞳からまた涙が零れた。

 ミレナに非はない。忙しい身なのにエリザベートのことを気遣ってくれていたのは常に感じていた。迷惑をかけたくなくて、うまくいっていないのだからと婚約解消されるのが嫌で、周りにも口止めしていたのだ。


「ミレナさまは、悪くありません。わたくしが、お伝えしないようしてましたの」


 泣きながら必死に言い募るエリザベートに、ミレナはふと優しく目を緩める。

 宥めるように、縋るように、エリザベートの髪を撫でる手は震えていた。


「ありがとうね、リーザ。……母になれなかった女からのお願いだ。嫌なら無視してくれていい。今伝えた通り、アランは寂しい育ちだ。きっと、初めてエリザベートのように愛情深く優しい女の子と接して戸惑っているんだと思う。だからと言ってエリザベートを傷つけていい理由にはならないのはわかっている」


 そこまで言って、ミレナは迷うように瞳を閉じた。

 そこから一滴だけ雫が零れる。


「……リーザが無理だと思ったら、いつでもあたしに言ってほしい。でも、出来るだけでいいんだ。アランとの交流をやめないでくれると、嬉しい。愛を知らないあの子にそれを教えられるのは、きっと君だけだと思うんだ」


 そっと囁くように告げられた願い。それは染み入るようにエリザベートの胸に広がっていった。

 アランの育ちを考えたことはなかった。両親からの愛を受け取れなかった、可哀想な王子様。

 エリザベートはアランを慕っているのを隠さなかったから、初めてのことにさぞかし戸惑ったことだろう。それで遠ざけられていたのなら、エリザベートの事が嫌いで近寄らないようにしていたのではないのなら、努力すればなんとかなるかもしれない。


 エリザベートはミレナをそっと抱き返した。今のミレナは武勇を讃えられた英雄ではなく、ただのか弱い女性にしか見えなかった。


「勿論ですわ。ミレナ様。私、努力するのは得意なんです。……それに、私諦めが悪いみたいですの。初めてお会いした時より今の方がずっと深く、アラン様に恋をしているんです」


 我ながら呆れてしまうのだが、エリザベートの恋心は日に日に増す一方だった。


 素っ気ない態度で傷つくこともあるのだけど、基本的にアランは優しいのだ。学園ですれ違えば声をかけ近況の確認をしてくれるし、手紙を書けば必ず返事とちょっとした小物などのプレゼントも送ってくれる。

 そんな優しさとお茶会での態度の違いがひどすぎて余計傷つくのもあるのだが、それでもエリザベートの恋心はどんどん膨らんでいた。


「そう言ってくれるのかい。……ありがとうリーザ。君が居てくれて、本当に良かった」


 ふわり、と微笑んだミレナの笑顔は少女のように可憐だった。

 エリザベートは、敬愛するミレナの為にも、きっとアランといい関係を築こうと決意した。

 諦めずに努力し続ければなんとかなると、そう思ったのだ。努力が報われなかったことなんてもう経験していたというのに。

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