#3 勉強会
吾妻さんに勉強を教えて欲しいと言われた翌朝。俺は朝のショートホームルームが始まる前に雪音も一緒に勉強する断りを入れるためB組に来ていた。勿論、雪音の付き添いで。
教室の中を覗くと、吾妻さんは一番前の奥の席でぽつんと独りで勉強していた。扉の近くで話していた二人の女子生徒に吾妻さんを呼んでもらおうと頼んだが、二人は気不味そうな表情を浮かべた。恐らく一度も話した事がないのだろう。
入ってもいいか訊くと、堅い表情を少し和らげて頷いてくれた。遠慮なく入り、真っ直ぐ吾妻さんの席へ向かう。
「吾妻さん。今ちょっと時間良い?」
話し掛けたのが俺だと考えもしなかったのか、最初は強張った気色で顔を上げたが、話し掛けたのが俺だと気付くと驚きの表情へと変わった。
「み、峯田くん……! どうしたんですか?」
「今日からの勉強会なんですけど、こいつ……同じクラスの雪音も一緒で良いですかね?」
隣でおどおどしている雪音に、お前からもお願いしろと肘で小突く。それを察したのか、幼児のようにもじもじしながら頭を下げる。
「お、お願いします……」
「全然良いですよ。私は峯田くんに教えてもらう側なので文句は言えないですから」
笑顔でそう答える吾妻さん。なんて聖人なんだ。一人も友達が居ないのが謎である。
一方、雪音は予想以上にあっさりと承諾された為、間の抜けた顔をしていた。良かったなと言ってやると、うん……と消え入りそうな声で頷く。
「じゃあ、また昼休みに」
「はい、宜しくお願いします!」
吾妻さんに別れを告げ、雪音を連れてB組から出る。途端、雪音がさっきまでのしおらしさは何処へ行ったのか、明るい声音で、
「吾妻さん、めっちゃ良い人だったね!」
そうだな、と溜め息混じりで返事をする。時々、お前は二重人格か! とツッコミを入れたくなる。
雪音は可愛いのだから俺以外にもこういう屈託の無い笑顔が出来れば友達も作れるに違いないのに……。
◇◇◇◇
そして来たる昼休み。雪音と食堂へ向かうと、窓側の四人用テーブルからこちらに気付いて手を振っていた。
「お待たせしました」
「いえ! 私も今来たところですから!」
そう言うと彼女はコンビニのレジ袋からおにぎりを二つ出してから、参考書とノートも開く。俺は教え易いように彼女の向かい側に座った。それを見た雪音も俺の隣の椅子に腰掛ける。
早速、俺達は昼食を取りながら勉強を始め、あっという間に昼休みの半分が終わってしまった。
「うん、考え方はあってるのでもっと自信を持って良いですよ。最初の答えで合っていたのに「やっぱり違うかも…」と答えを変えてしまって誤答していることが多いので」
「分かりました…」
ははは…と苦笑する吾妻さん。自分でもその弱点に気付いてはいたのだろう。吾妻さんはペットボトルの緑茶を一口飲むと、雪音の方へと視線を向ける。
「及川さんは頭良いんですね! さっきの問題もすらすら解いていましたし。こんなこと言ったら失礼ですけど、一緒に勉強すると聞いて、てっきり私と同類なのだと思い込んでいました」
「あ、ありがとうございます……」
蚊の鳴くような声で答える雪音だが、少し照れたような笑みを浮かべている。引っ込み思案な雪音には同級生に褒められることは少ないため嬉しいのだろう。
「そうだ! テストまで一緒に勉強する仲なんです、折角ですから敬語は止めてタメ口で話すなんてどうです?」
吾妻さんが閃いた! と言わんばかりに手を叩いて提案する。
「良いですね。実は同い年なのに敬語を使ってて少し息苦しさを感じていたので、名案だと思います」
「ですよね! ……それじゃあ改めて宜しくね、峯田くん、及川さん」
「こちらこそ宜しく、吾妻さん」
そんな雑談等を交えつつ、残りの時間もしっかりと勉強をする。放課後にまた続きをやるので、比較的簡単な問題を沢山解き、頭の回転を早める練習をした。
五限目開始の五分前を告げる予鈴が鳴り、俺達は各々教室に戻った。
恙無く今日の授業を全て受け切り、帰りのショートホームルームで無精髭がトレードマークの担任、江原が気怠げに諸連絡を口に出す。
「えーっと、図書委員は誰だっけか?」
「はい、俺です」
図書委員に所属している俺は挙手する。
「ん? 峯田だけか?」
「相楽さんもです」
「あぁ、相楽か……今日は病欠だからお前しか居ないのか」
同じ図書委員の相方、相楽詩織は今日は学校を欠席している。
「まあ一人でも問題ない。図書委員はこの後、新入荷した本の仕分けがあるらしいから図書室に集合だそうだ」
「分かりました」
……まじか、じゃあ勉強会に遅れるの確定じゃないか。最悪、行けない可能性さえある。中止にするか……いや、テストまで時間が無い。気の毒だが、雪音に任せよう。
問題集で解いてもらい、分からないところは雪音が教える。説明するだけなら雪音にも出来るだろう。何も、楽しく会話しろと言っている訳ではない。
ショートホームルームが終わり、俺は雪音の席に行く。
「というわけで俺は図書委員で遅れる。悪いんだけどこの紙に書いてある範囲を吾妻さんにやってもらってて欲しい」
「え……うん、分かった」
凄く嫌そうに了承する。心が痛むが仕方が無い。雪音に任せ、俺は図書室へと向かうのだった。
◇◇◇◇
いくらなんでも入荷し過ぎだろ!
全学年の図書委員、約四十人で二時間弱も掛かる量だった。誰が読むんだよと言いたくなるマイナーな本ばかり入荷してあり、至極時間の無駄だった。
俺は早足で自習室に向かう。静かに扉を開けて中に入ると、そこに居るのは雪音と吾妻さんの二人だけ。そして心做しか、空気が凄く重たい。普通に勉強だけしていれば、こんな空気にはなるまい。……何かあったのか?
「ごめん、お待たせ。思ったより長引いちゃって」
「峯田くん! お疲れ様!」
明るい笑顔で労ってくれる吾妻さんと、声には出していないが「やっと来てくれた!」と目に少し涙を浮かべながら安堵の表情を向ける雪音。
「えっと……なんかあった?」
女同士の諍いに男が首を突っ込むべきではないことは分かっているが、テストまで勉強会は続くのだ。ずっとこんな空気のままだと俺が精神的に死んでしまう。
「別に何も無かったよ。ね、及川さん?」
「え? あ、うん。何も……」
絶対なんかあった! 雪音の目が滅茶苦茶泳いでるもん!
だが、ここで無理矢理に聞き出そうとするほど俺も野暮じゃない。そっとしておくのが吉だろう。
「吾妻さん、課題は終わらせた?」
「うん、ばっちり!」
笑顔でサムズアップをする吾妻さん。ノートを見せてもらい、一通り答案を確認する。まだケアレスミスは目立つものの、明らかに正答率が上がっている。少し気を付けるだけでここまで成長できるのなら俺が教える必要はないのでは?
「じゃあ今日はもう遅いし、帰って自習にしようか」
そう言うと、吾妻さんは伸びをして、帰り支度を始める。雪音は勉強などせず、本を読んでいたため直ぐに帰れる状態だった。
「……あ、私教室に忘れ物しちゃった。二人は先に帰って良いよ」
吾妻さんが苦笑しながらパタパタと駆け足で自習室を去っていった。
「帰るか」
「……うん」
暗い表情で小さく頷く雪音。
雪音の家が近くなったところで、珍しく二人きりの時なのにだんまりだった雪音がようやく口を開ける。
「りんりん、私って気持ち悪い?」
「は?」
予想外の言葉に素っ頓狂な声で聞き返してしまう。
「だから、私がりんりんとずっと一緒にいるのを気持ち悪いって思ってる?」
「別に思ってないよ。……というか俺達は従兄妹なんだから、そんなこと気にする必要ないって」
その言葉を聞いて、雪音の曇っていた表情が一瞬にして晴れていく。
「そうだよね! 従兄妹だもんね!」
「そうだよ。従兄妹なんだから」、と自分に言い聞かせるように何度も呟く雪音。そんなことを気にしていたのか? 今までずっとベタベタと付き纏っていたのに今更気にするなんてどうしたんだ。
またね! といつもの天真爛漫な雪音の姿で家の中へと入っていったのを見て、安堵の溜め息をつく。
それにしても何故そんなことを気にし出したのだろう。……まさか、吾妻さんがそんなことを……? いや、あんなにも人が良くて、勉強熱心な子に限って有り得ないか。
俺は雪音も年頃の女の子だしな、と勝手に納得して自宅の鍵を回した。