教室
アインはフィッケと並んで校舎の廊下を歩いていた。
まだ教室はだいぶ向こうだが、もう怒声が聞こえてくる。
「だいぶ盛り上がってるな」
アインの言葉に、フィッケは頷く。
「ああ。それでチェルシャも泣いちまってさ」
「ふん」
アインは鼻を鳴らす。
「泣くから余計盛り上がるんだ」
足早に3年1組の教室に近づくと、アインは乱暴にドアを開けた。
突然のクラス委員の登場に、胸倉を掴み合っていた二人の男子とそれを見て涙ぐんでいた女子が驚いたように振り返る。
「チェルシャ、連れてきたぜ」
アインの後ろからフィッケが顔を出して得意そうに言うと、チェルシャと呼ばれた女子は涙をためた目で頷いた。
「ありがとう、フィッケ」
「何の騒ぎだ」
アインが不機嫌さを隠さず男子二人に近づいた。
「教室は勉強をする場所だ。殴り合いたければ武術場に行け」
「ほっといてくれ、アイン」
そう言ったのは、細面の狐のような顔をした少年だ。
「これは俺たち二人の問題だ。あんたの手は煩わせない」
「コール」
アインはその少年の名を呼んだ。
「僕の手ならもう煩わせている」
そう言って、手を伸ばして二人の胸倉からそれぞれの手を払う。
「とりあえず離れろ」
コールと、もう一人の気の荒い牛のようなフレインという名の男子は、手を払われてもまだお互いにしばらく睨み合っていたが、やがてどちらからともなくそっぽを向いた。
「ケンカの原因は何だ」
さして熱意のこもらぬ口調でアインは尋ねた。
「胸倉まで掴みあったんだ。それなりの事情があるんだろう」
「アイン、あんたには関係ない」
フレインがそう答えたが、アインは首を振った。
「関係はある」
その声に、少しだけ熱がこもる。
「ここは僕のクラスだ。ここで起きることで、僕に関係ないことなどない」
「あれ、アイン。さっきと言ってることが」
「君は黙っていろ、フィッケ」
アインはぴしゃりと言った。
「話せ。これは君たちへのお願いじゃない」
アインの声が硬い冷たさを帯びた。
「命令だ」
コールとフレインは表情を強ばらせ、どちらが話すか逡巡するようにお互いを盗み見た。
「話す順番も決められないのか。いいだろう」
アインはコールを指差す。
「コール。君から話せ」
「お、俺かよ」
コールは躊躇ったあと、それでもアインの眼光の鋭さに負けて、ぽつぽつと話しだした。
「大した話じゃねえ。こいつにからかわれたんだ」
「そうか」
アインは頷く。
「どうからかわれたんだ」
「……チェルシャに」
コールは言いづらそうに答えた。
「俺が、チェルシャのことを好きだって言ったとかなんとか」
「言ったのか」
「言ってねえよ」
コールは顔を真っ赤にして首を振った。
「言うわけねえだろう、そんなこと」
アインは涙目のチェルシャを振り返る。
「言われたのか」
チェルシャは無言で首を振る。
「言われていないらしいが」
アインがコールのケンカ相手のフレインを見る。
「だけど、俺は聞いたんだ」
フレインは言った。
「嘘じゃないぜ。顔は見えなかったけど、声は確かに聞いた」
「どこで」
「ここだよ」
フレインは両手を広げた。
「この教室から聞こえてきたんだ。俺が廊下から教室に入ろうとした時だ。そんな声が聞こえたから、とっさに入るのをやめたんだ」
フレインはそう言って、思い出したようにコールを睨みつける。
「今日も仲良さそうに二人で喋ってるから、俺も実はこの間聞いてたんだぜって言っただけなんだ。それをこいつは、そんなことは言ってないなんて逆上しやがって」
「言ってねえんだから言ってねえって言うに決まってるだろうが。そうしたらこいつ、にやにやしながら、分かってるとかなんとか言いやがるから」
「ふむ」
アインは目を真っ赤にしたチェルシャをちらりと見て、フレインに向き直った。
「具体的には?」
「え?」
フレインが目を剥く。
「なんだって?」
「具体的に、君はコールとチェルシャが何と言うのを聞いたんだ」
「ああ。ええと」
フレインは、顎を上げて記憶をたどる。
「確か、コールの声で『本当に君は可愛いな。君が好きだ』、それでチェルシャの声が『ありがとう、嬉しい』とか……そんな感じだったな」
「ふうん」
アインは頷いた。
「それはいつのことだ」
「一昨日の放課後だよ」
「なるほど」
アインは腕を組んで、フィッケを振り返った。
「フィッケ、この間、君は転んで怪我をしたな」
「え? ああ」
急に話を振られたフィッケは頷く。
「したけど、それがどうしたんだ」
「医務室で手当てをしてもらったあとで、この教室で先生から説教を受けたのを覚えてるか」
「ああ。されたされた。猿じゃないんだからむやみに木に登るな、とか言ってたような……よく覚えてないけど」
「あれは一昨日のことだろう」
「あっ」
フィッケが目を見張る。
「そうだ、そうだった。一昨日だ。一昨日の放課後、俺はこの教室で先生に説教を受けてたんだ。それってつまり」
「そうだ」
アインはフレインを見た。
「一昨日、この教室にはコールもチェルシャもいなかったことになる」
「ほら見ろ」
コールが勝ち誇ったように言った。
「俺は一昨日はすぐに帰ったんだ。教室になんかいなかったんだよ」
「だ、だけどよ」
フレインはそれでもなおも言い募った。
「俺だってこんなことで嘘はつかねえ。俺の聞いた声は何だったんだ。空耳だなんて言うなよ」
「隣の教室の声だろう」
アインはあっさりと言った。
「あの日、僕もクラス委員としてフィッケの説教に立ち会ったが、帰る時に隣の2組の教室から男子と女子が出てくるのに出くわしたからな。あれは、確か」
「編入生だ」
フィッケが声を上げる。
「今年から2組に入ってきた、変わった感じのやつ。それとウェンディが出てきたんだ。俺も覚えてるぞ」
フィッケは2組の女子の名前を上げた。
確かに、2組には今年の春から一人、編入生の少年が入ってきていた。
「その二人が、好きだとか何とか、そんなことを言ってたっていうのか」
フレインが顔を歪める。
「編入生? だってまだそいつは来たばかりだろう」
「北から来たらしいな、そいつは」
アインはそう言って微笑んだ。
「まだ戦の絶えない野蛮な地域だ。北の人間は手が早いらしい。君たちも意中の女子がいるのなら注意するんだな」
「うへ」
コールが肩をすくめた。
「くそ。紛らわしい」
フレインもそう言って床を蹴った。
「こんなところでいいか」
アインは二人を順番に見た。
「二人とも、怖い思いをさせたチェルシャに謝れ」
アインの言葉に、チェルシャは慌てて手を振った。
「わ、私は別に」
しかし二人は存外素直にチェルシャに頭を下げた。
「ごめん、チェルシャ」
「悪かった」
チェルシャは困った顔でうつむく。
「チェルシャ」
アインが促す。
「もう二人とも、ケンカしないでね」
チェルシャはようやく小さな声でそう言った。




