聞きそびれていたこと、聞けました
「でも、そうかあ。知らなかったなら、悪かったね。最初にきちんと言えば良かった」
田谷が申し訳なさそうに眉を下げる。
「うちの長屋に人がいなくなったのは、この近所で妖怪を見た人が多かったからなんだ。みんな怖がってね、他の長屋に移ったり江戸の外に戻って行ってしまってねえ」
「はあ、妖怪ですか……」
困ったように笑う田谷、田谷の言葉にうんうんと頷く葉月、話を聞きながら目を輝かせる黄場の誰にも共感できずに、吉花はあいまいな相づちを打つ。
だから昨日の夕方は人通りが無かったのだな、と納得しながらも、突然、妖怪と言われても、吉花にはイメージが湧かない。
ほんの数日ほど前まで、普通の現代日本に暮らしていたのだ。朝は時計のアラームに起こされ、電子レンジで温めた残り物で朝食を済ませ、蛇口をひねれば出てくる暖かい水で顔を洗い身支度を整えていた。電車やバスに乗って移動して、いつでも明るいコンビニで買い物をした帰り道は、街灯や道ばたの自動販売機の明かりで暗がりなんてほとんど無かった。
そんな生活から一転、この町ではお湯を沸かすにも火をつけるところから始めなければいけない。火打ち石の使い方はまだ慣れなくてなかなかうまくいかないし、ようやく火がついてもガスコンロと違って火加減の調整が難しい。新生活に馴染むのに手いっぱいだから、と自分に言い訳しながら、調理済みの食べ物ばかり買って食べてしまっている。こんな調子で、この町に馴染めるのだろうかと、吉花は不安になる。
衝動的に現代生活を捨てて、非現実的な江戸の生活に逃げ込んだけれど、本当にこれで良かったのだろうか。もしかして自分はここでさえ馴染めないのではないか。そうだったなら、どうしたらいいのだろう。次に逃げ込む場所なんて、もう実家の自分の部屋しかない。
吉花がひとりでぐるぐると考え込んで、胸の内を不安でいっぱいにしているうちに、他の三人の間ではなにごとか話し合いが行われていたらしい。
突然、手を握られて驚く吉花に、田谷が手を振る。
「それじゃあ、二人で湯屋に行ってらっしゃい」
「日暮れまでには帰ってくるように、気をつけて。黄場はちゃんと吉花さんについて行って、迷惑かけないようにね」
よくわからないままに、黄場に手を引かれて吉花は歩く。いつの間にかフードをかぶり直した後ろ頭を眺めながらついて行けば、井戸に近い部屋を通り過ぎ、その隣の吉花の部屋も素通りして、長屋の角部屋の前まで来て、黄場は足を止めた。
つられて立ち止まった吉花に、待ってて、と言って黄場は自室にするりと入る。
待つほどもなく再び姿を見せた彼女の手には、なにやら山吹色をした風呂敷包み。なんだろうか、と視線をやった吉花に、黄場は包みを掲げて教えてくれた。
「辰姫のお風呂セット! お風呂はいずこ?」
その言葉で、ようやく吉花は理解した。
引っ越してきたばかりの黄場を湯屋に案内するということだろう。妖怪か否かはわからないが、このあたりが物騒なことに変わりはないから、いっしょに行動する相手がいることは喜ばしい。
そう考えた吉花は気持ちを切り替え、黄場にひと声かけて着替えを取りに部屋に入るのだった。
黄場は見るものひとつひとつが気になるらしく、湯屋に行き着くまでにも何度も足を止め、あちらこちらを眺めていた。
ようやくたどり着いた湯屋でも、番台の女性に質問をしては首をかしげられ、言葉を重ねるごとに番台の女性の困惑が増していた。見かねた吉花が間に入って通訳のようにして聞いたところ、この町の湯屋は外装や番台、火の焚き口は江戸時代風にしてあるが、それ以外の箇所は現代の銭湯とあまり変わらないらしい。
江戸時代のとおりにしてしまうと入り口から脱衣所や浴室が丸見えになるらしく、現代人には利用できないだろう、との理由で、この町にある湯屋はどれも銭湯を模した内装になっていると言う。
何気なく利用していた吉花は気づいてもいなかったから、黄場と並んでふむふむなるほど、と興味深く聞いた。
聞き終えた吉花は、知識が増えた満足感に包まれてさあ、お風呂に入ろう、と思ったのだが、黄場が付いてこない。湯屋まで案内したのだから放っておいても良いのだろうけれど、なんとなく気にかかる。
脱衣所に向かう人や湯屋を出る人の群れを見回して探せば、脱衣所に入る手間の壁際にフードを被った後ろ姿を見つけた。
「黄場さん、なにしてるんですか?」
「お風呂用品。面白い。辰姫でいい」
「じゃあ、お辰さんて呼んでいいですか? 私、これ買いましたよ」
体をこするためのぬか袋や手ぬぐいを見て、あれが可愛いこれは使いやすそうだ、とひとしきり盛り上がり、ようやく風呂に入ったのは日暮れ間近。
風呂の中でも辰姫は木桶や壁の絵をしげしげと眺めて、長居した。混み合っていた浴室からは次々に人が減っていく。とうとう二人だけになるころ、吉花がまた来たときにじっくり見ようと促して、ようやく風呂から上がることができた。
ほかほかになった二人が湯屋を出たころには、すっかり日が暮れていた。
「暗くなっちゃいましたね……」
吉花がつぶやきながら見上げた先には、薄ら曇りの夜の空。ぼやけた月は地を行く人々の道を照らしてはくれない。
「提灯。ゆらゆら。ありがたい」
「そうですね。貸してもらえて助かりました」
ひと気の無い二人の行き先を照らすのは、湯屋で借りた提灯だ。散々長居して帰る吉花たちに番台の女性が、夜道に気をつけて帰りなよ、返すのは今度でいいよ、と渡してくれた。
ひとりきりでは無い上に明かりがあるおかげで、気持ちに余裕が出来て、二人はのんびり歩いて帰る。
もう少しで長屋の木戸が見えるというとき、不意に風が吹いて提灯の火が消えてしまった。月も、流れてきた厚い雲に隠れてしまったのだろう。吉花と辰姫はたちまち闇に包まれる。
と思いきや、前方に明かりが見える。
木戸を照らす提灯の明かり。こちらに背を向けた着物姿の男は、頬っ被りをしている。
どこかで見たような、と吉花が考えているうちに、辰姫が男に駆け寄っていた。
「火、わけてくれ」
火の消えた提灯を突き出して辰姫が言うのが聞こえたのだろう、男が身じろぎ、振り向く気配がした。
まず肩がこちらに傾ぎ、続いて手ぬぐいを被った頭がゆうるりと向きを変える。俯き加減に吉花たちのほうを向いた後で、手に持った提灯をやけにもったいぶった動作で体の前に回してきた。
ゆるゆると首を持ち上げる男の額が提灯に照らされ、妙な白さが目につく。何かがおかしいような気がして、じっと見つめる吉花の視線の先で、とうとう男が顔を上げた。
そうして、見えた男の顔は、何も無かった。
目鼻口はおろか、わずかな凹凸もないつるりと白いものが、提灯の明かりに照らし出されているばかり。明らかに、人ではない。
江戸の暗闇に湧く、異形の姿がそこにあった。