みんなに、ありがとうございます
「さて。どうしましょうか」
辰姫を送り出した吉花は、部屋の中に目をやってつぶやいた。
朝食の後片付けは済んでいる。部屋の掃除も辰姫が張り切ってやってくれたから、必要ない。出勤時間までにはまだしばらく余裕がある。このごろは小料理屋の仕込みを細川が手伝うため、吉花が張り切って早く行ってもすることがない。
「……よし。掃除しましょう」
持て余した時間を潰すため、吉花はほうきを手に部屋を出た。向かう先は、共用の井戸だ。
使うのは同じ長屋に暮らす人たちばかり。汚しっぱなしにするような人はいないから、ひどく汚れているということはない。それでも屋外にあるから砂ぼこりが溜まってしまうし、水場だから汚れやすい。
ざっと掃き掃除をした吉花が井戸周りを磨いていると、がらら、とどこかで戸の開く音がして、誰かが声をかけてくる。
「やあやあ、吉花ちゃん。ありがとね」
振り向けば、羽織の袖に手を突っ込んだ田谷が寒い寒いと言いながらやってくるのが見えた。
「おはようございます、田谷さん。いつも使わせてもらっているところですし、簡単にしか掃除していませんから」
田谷からの感謝の言葉に、むしろもっとしっかり掃除するべきなのだけれど、と吉花は申し訳なく思う。その気持ちを吉花の表情から感じ取ったのか、田谷はいやいやと首を振った。
「本当は、この長屋の人みんなで順番に掃除すればいいんだけどね。吉花ちゃん以外の人は、いつもいるわけじゃないからさ。まあ大家の俺がやってもいいんだけど、どうにも掃除って苦手でさあ」
悪いねえ、と言いながら申し訳なさそうに笑う田谷に、吉花はふふっと笑い返す。
「以前もこんなお話しましたよね。なんだかこの町に来たばかりの頃みたい」
「ああ、そういえば吉花ちゃんがうちの長屋に来たときにも、こんなこと言ってたっけね。いやほんと、来てくれたのが吉花ちゃんで良かった」
しみじみと言う田谷の言葉をお世辞と受け取って、吉花はあいまいに笑う。けれど、それを見た田谷はおや、と片眉をあげた。
「お世辞じゃないよ。吉花ちゃんは頼まれなくても進んで長屋をきれいにしようとしてくれるし、他の住人ともいい関係を築いてる。ささやかなことだと思ってるかもしれないけど、人と人の暮らしが近いこの町では、それはすごく大切なことなんだよ」
「はあ……」
いつになく真剣な顔で言う田谷に、吉花はぼやけた返事しかできない。自分がそれほど立派なことをしているとは、思えないからだ。
そんな吉花の様子に、田谷は苦笑する。
「まあ、吉花ちゃんがいてくれて助かってるってことだけ覚えといてよ」
ぼんやりと吉花の中に残ったその言葉はその夜、吉花を救った。
役立たず、と繰り返す影の声を受け止めて、ささやかなことでも助かると言ってくれる人がいます、と言い返すだけの力を吉花に与えてくれた。
その次の日は、仕事帰りにいっしょになった細川と稲荷が。そのまた次の日にはどこからかやってきた赤塚が、という具合に毎日誰かが吉花を勇気付ける言葉を贈ってくれた。
そうして吉花は日毎夜毎、現れる影の言葉に言い返し、考え込んで沈むことは減っていった。
それでも、影は日を追うごとにじわじわと濃さを増していく。言い返されては黙り込み、暗いしみのように部屋のすみでじっとしていた。
「……おまえなんか」
ある日の夜明け前、行灯の明かりを頼りに朝の支度をする吉花の部屋で影がぱかりとくちばしを開いた。
いつからだろう。影は気が付くと、形を成していた。
鋭いくちばしと背中の羽を持つようになった影は相変わらず真っ黒いまま、光を映さない暗い目で吉花を見すえて口を開く。
「おまえのことなんか、ほんとはだれもきにしてない」
そんなことはない、と吉花が否定するよりも早く、黒いくちばしが言葉をつむぐ。
「みぃんなきやすめ。でまかせ。でたらめ。うそ、うそ。うそばっかり!」
まばたきをしない暗い目に視線を縫い付けられた吉花は、ぱくぱくと上下するくちばしから吐かれる言葉を正面からぶつけられて思考が止まる。行灯の火がゆらりと揺れる。
気休め、出まかせ。そうかもしれない。積極的に嘘をつくような人たちでないことは知っているけれど、それでも、こんなにタイミングよくみんなから声をかけられるだろうか?
実際、出来すぎていると思っていた。
これほど間をおかず数多くの友人知人が吉花を勇気付けに現れるなど、偶然ではないだろう。きっと葉月あたりが皆に頼んで、 それで口ぐちに吉花を励ましてくれているのだ。頼まれて、吉花の気持ちを上向かせるようなことを言ったに違いない。
じじじ、行灯がかすかな音を立てて明かりを弱くする中、吉花は考える。
(頼まれてなかったら、あんなにたくさんの人が口々に自分なんかを褒めてくれるなんて……)
そう考えかけた吉花の頭に、葉月の声が蘇る。
自分なんかと言わないで、と言った葉月の言葉が胸に暖かく広がる。
そのときの葉月を、そう言われて嬉しかった気持ちを思い出して、吉花は暗いほうに行きかけた思考を持ち直した。
「おまえなんかほめようがない。おまえなんかいいところがない。おまえなんかもういらない。おまえなんか、おまえなんか……」
黒いくちばしから言葉を吐き続ける影をの暗い目を見据えて、吉花は背すじをぴしりと伸ばした。




