異国の言葉に、挑戦です
吉花はひとりの部屋で辞書を引く。
江戸時代の衣装ケースである長持ちをテーブルの代わりにして、せっせと英語の辞書を引く。辞書と一緒に広げるのは、白重から渡された論文だ。さきほど、教会に遊びに行った帰りに渡されたものである。
「英語の論文なんて、読めないです……」
突然、渡された論文を手にして本気で困っている吉花に、白重はわかってる、と頷いた。
「だから、辞書も貸してあげるわ。辞書くらい、義務教育のときに引いたでしょう? わからないところは次に来た時に訳してみせるから、まずはできるだけ自分でやってみるのよ」
論文が印刷された紙を引っ込めるどころか英和辞典まで追加して、白重は吉花を家に帰したのだった。次に来るときまでに、できる限りやってみるのと、と言って。
家に帰った吉花は、どうしたものかと思いながらも論文に目を落とした。
タイトルを見るに、江戸時代の食事について書かれたものらしい。Edoとかmealという単語から、そんな予想がついた。
ぺらりとめくってみると、A4二枚ほどの短い論文だ。英語だけれども。
吉花が大学生のころに読んだ論文や本は、どれも日本語だった。中学校、高校で学んだ英語とは離れて久しい。
それでも、ちらりと見た論文のタイトルは何となくとっつきやすそうな雰囲気を漂わせている。
江戸だし。食べものだし。
これらは、吉花が日頃から触れ合っているものだ。なんちゃってではあるが着物を着て、小料理屋に勤めているのだから、そのど真ん中にいると言ってもいいかもしれない。
だから、少しだけ読んでみようかな、と吉花は思った。
できるだけでいいと白重が言ってくれたのも、背中を押してくれる。もし早々につまづいたなら、正直に告げればいい。ぽんぽんと喋る白重だけれど、口から出る言葉はよく聞けばどれも優しい気持ちが根底にある。
だから、吉花は思い切って英語の論文に挑戦してみることにしたのだ。葉月と約束をしている夕方まではまだいくらか時間があるし、少し目を通してみようかと思った。
まずはタイトルのわからない単語を別の紙に書き写す。論文に意味を書き込んだら単語を覚えないから、書くなら別の紙にするのよ! と白重に言われているのだ。
タイトルの段階でわからない単語がいくつもあることに、少し情けない気持ちになりながら、辞書を使って日本語の意味を調べる。細かい字を書くには、やっぱりシャープペンシルが便利だな、と筆型シャープペンシルを作ってくれた誰かに吉花は感謝する。
この場合はどんな意味だろう、と論文と辞書とを見比べていると、なんだか懐かしい気持ちになってきた。
高校生のころに授業の予習でよくやったなあ、とあのころの楽しかった記憶が蘇ってきて何となく嬉しいような気持ちで単語を調べていく。
英語が得意ではなかったけれど、それでも嫌いなわけでもなかったあのころ。進んで勉強をするわけではなかったけれど、出された宿題はきちんとやるタイプだった吉花は、少しずつではあるけれど論文を読み進めていく。
かりかり、ペン先の立てる音にもなつかしい気持ちになりながら、黙々と紙に向き合う。
「がんばったところで、なんになる。どうせおまえにできやしない」
突然の声に、せっせと動いていた吉花の手が止まる。
声がした方に目をむけると、いつの間にかまた姿を見せている黒い影。そろそろ陽が傾こうかという頃合いで、影は陽のささない部屋のすみのあたりにわだかまっている。
「がんばったところで、どうにもならない。どうせおまえはなんにもできない。あれもこれも、ちゅうとはんぱ。どれもそれもはんにんまえ」
じわじわと形を変えながら話す影の声に、吉花の手が力をなくす。
そうだった。自分が頑張ったところで、白重ほど流暢に英語を話せるようになるとは思えない。細川ほどじょうずに料理もできやしない。小料理屋の仕事で失敗をすることは減ったけれど、それは慣れれば誰だってできること。
さっきまで湧いていた楽しいような嬉しいような気持ちは消え去り、胸がしんと冷えていく。
「どうせむだならやめればいい。どうせやめるならやらなきゃいい」
(やっぱり、私なんかが頑張ったところで……)
追い打ちをかけるような影の声にそう吉花が思いかけたところで、じゃりり、家の前から音がした。
「吉花さん、いる? 葉月ですー」
続いて聞こえる、葉月の声。
木戸越しのその声で、吉花は催眠術がとけるときのようにぱちりと目をまたたいた。
ぱちぱちとまばたきしながら部屋のすみに目をやれば、もうそこに黒い影の塊はない。嫌なことがかり言う声もしない。ただ、陽の当たらないひんやりとした部屋のすみが見えるだけだ。
「おーい、吉花さーん」
「あ、はーい! いま開けます!」
再度の呼びかけに、吉花は慌てて土間におり草履をつっかける。
がらり、開けた木戸の向こうに立つ葉月は、吉花と目が合うとにこりと笑った。
「良かった。もしかして寝てるかも、とも思ったんだけれど、声が聞こえたような気がしたから」
「えっ」
笑顔の葉月の言葉に、吉花はどきりとする。帰ってきてから、ひとりの部屋で喋った覚えはない。
ならば葉月の聞いた声は?
(もしかして、あの影の声? 私だけに聞こえるものじゃないの? そういえば、あんなにはっきり喋っていたっけ……?)
改めて考えてみれば、はじめはささやくような声だったのが、いつの間にやら少し声をひそめたくらいの大きさになっているように思う。影の濃さもはじめより増している気がする。
どういうことだろう、と考え込む吉花の頭越しに、葉月は部屋の中に目をやる。真剣な顔ですみの一角をじっと見つめてから、葉月はにっこり笑って吉花の手をとる。
「支度は済んでる? 今日はこのごろ人気のお店で夕飯を食べるからね。ちょっと早めに行かないと混んでしまうから、そろそろ出かけないと」
言われて、慌てて上着を着たり手提げを持ったりと支度をする吉花を待つ葉月は、静かに何かを考えているようだった。