見知らぬ人に、会いました
よろず商いまでの道を小走りで進んだ吉花は、残っていたおにぎりをひと包み買った。閉店準備をしていたところだったので、申し訳なく思う。
店を出るころにはもう完全に陽は落ちており、わずかに遠くの山の峰に残光が引っかかっている程度だった。真っ暗になる前に早く帰ろう、と急ぐ吉花の背に、よろず商いの店員が何か声をかけてきた。
片手に提灯を揺らして手を振っているけれど、何と言っているかはわからない。暗くなるから気をつけて帰るように、といったことだろうと当たりをつけた吉花は、ぺこりと頭を下げてから再び帰路についた。
来た道を足早に戻りながら、吉花はあたりに目をやった。
昼間はあれほど賑わっていた往来には、誰もいない。観光客だけでなく、地域の住人の姿さえ見かけない。もうみんな家に帰ってしまったのだろうか。がらん、と広い表通りの店は、どれも木戸を閉めてひと気がない。
街灯もない、自動販売機もない時代は、ずいぶんと夜が早くて真っ暗だったのだなあ、と感心しながら吉花は歩いていく。
今日はまだ月も出ないようで、歩くたびにあたりの闇が濃くなっていくようだ。せかせかと足を動かす吉花の体を風がなでていく。春とはいえ、陽が落ちるとまだまだ寒さが戻ってくる。
今日はもう部屋で湯を沸かし、濡らした手ぬぐいで体を拭いて寝てしまおう、と着物の襟を寄せながら吉花は考える。これから湯屋に行っていては、帰り道で湯冷めして風邪をひきかねない。
そうしている間にもあたりは暗さを増していき、ほとんど足元しか見えない。面倒臭がらずに提灯を持ってくれば良かった、と吉花が思ったとき、不意に前方に明かりが見えた。
真っ暗な中にぽつりと灯るのは、提灯の明かりだろうか。黄色がかった暖かそうな光は、吉花の胸をぽっと明るくしてくれた。
その明かりのすぐ向こうに、目指している長屋に続く木戸が照らし出されている。江戸時代にならって夜間は閉めるけど、出入りは自由にできるからね、と言っていた田谷の言葉を思い出しつつ、吉花は足を早める。
近寄ると、提灯を持っている人物はこちらに背を向けているのがわかった。頭には手ぬぐいで頬っ被りしているようで、顔は見えない。背格好からは成人男性のように見えた。
近所に住む人かな、と人を見つけた安心感を抱きながら吉花は男性の真横に差し掛かる。
そのとき、向こうもこちらに気がついたのか、男性が振り返るのがわかった。後ろ姿しか見えないその人がゆっくりと顔を向けた瞬間。
「こんばんは。お先に、失礼しますね!」
吉花はぺこりと頭を下げて、一目散に木戸へと向かった。ちょっと失礼かもしれないが、真っ暗な通りにひとりで取り残されたくはない。そう思って提灯を持つ人より早く木戸をくぐった吉花は戸を開けたまま待っていたが、後ろに続く足音はない。
「あの、閉めちゃいますよ……?」
入ってこないのだろうか、と吉花が木戸の外に顔だけ出すと、そこには誰もいない。提灯の明かりも見当たらず、ただ暗がりが広がるばかり。
「あれ、いない? ……あのー、閉めちゃいますからねー」
どこへ行ったのだろう、と首を傾げながら木戸を閉め、吉花は自分の部屋へと帰って行った。
小料理屋で初仕事を終えた吉花は、家路についていた。
時刻はまだ昼の三時過ぎ。昼食を求める客で賑わっていた店内はすっかり落ち着きを見せており、江戸時代の店の雰囲気を味わいたいという客が二、三人いるばかりとなったため、帰宅するように言われたのだ。 その際に店主が、このごろは物騒だから日が暮れる前に帰ったほうがいいしね、と言った。吉花はその話を詳しく聞きたかったのだが、おり悪く客に声をかけられ、聞けずじまいで店を出てきてしまった。
物騒とは何だろうか。
吉花は往来を行き交う和装、洋装入り混じった人ごみを歩きながら考える。
思い返せば、田谷も似たようなことを言っていたように思う。あちらも聞きそびれてしまっているから、会えたら聞いてみよう。ひとまず、帰って湯屋に行こう。
そう思いながら長屋のある裏道に入った吉花は、長屋の井戸端がなんとなく賑やかなことに気がついた。見れば、見知らぬ二人組が井戸で水を汲んでいる。
「ああ、おかえり吉花ちゃん。お疲れさま」
誰だろう、と首をかしげる吉花に、自宅から出てきた田谷が声をかけた。
「はい、ただいま戻りました。あの、田谷さん。あちらの方々は……?」
吉花の視線を追った田谷が、にこりと笑ってうなずいた。井戸端の二人の元へ行き何事か声をかけた田谷は、おいでおいでと吉花を手招いた。
「彼らが、このあいだ言ってた新しい入居者だよ。吉花ちゃんが仕事に行ってる間に引っ越してきたんだ。同じ長屋の住人同士、仲良くしてね」
言われて、吉花はぺこりと頭を下げた。
「春名吉花といいます。よろしくお願いします」
「あ、ご丁寧にありがとうございます。俺は葉月 緑人です。よろしく」
手に持っていた釣瓶を置いて、にこっとほほえんだのは男のほう。ざくっと短い黒髪が清潔感を感じさせる、好青年といった雰囲気の人だ。細身のズボンのような股引を穿いて濃いめの緑をした半纏を着た姿は、どこか見覚えがある。
どこで見たのだったか、と考えた吉花は、はたと思い至った。祭りだ。祭りで見かける御神輿の担ぎ手が、こんな格好をしていた。
吉花が心の中で納得していると、葉月に促されたもうひとりが一歩前に出てきた。股引にケープを羽織ったその姿は、フードを目深に被り顔が見えないこともあってかなり怪しい。
こんな怪しい格好の人物も許容するとは、この町のいい加減具合は懐が深いなあ、と感動する吉花に向けて、その人が口を開く。
「黄場辰姫。イエローと呼んで」
「……イエロー、さん?」
言われた言葉の意味をはかりかねた吉花が戸惑いながらもそう呼ぶと、黄場はケープの下にわずかに見える口元をにっと嬉しげに上げ、八重歯を見せて笑った。