赤面、している暇もありません
どこか遠くで風鈴の音がする。
ふと目を覚ました吉花は、ごろりと寝返りをうつ。
障子を開け放した縁側からささやかな風が吹いてくるから、それに乗って音が届いたのだろう。
意外に涼しい風だな、打ち水をしたのかな、などと思いながら転がったまま外に目をやると、暗くなりかけた庭が見えた。その先の囲いを這う蔦の葉が夕日に照らされているのをぼんやりと眺める。
朝顔だろうか、烏瓜だろうか。よく見てみようと半身を起こして見つめてみるけれど、花も見えず、夕焼け色に染まった葉からは判別できない。
その脇にしゃがんで世話をしているのは人に聞けば、わかるだろうか。後姿から男性だとわかるその人は、誰だろう。夕焼け色の着物が、本当は何色なのだろう。
(緑色なら、いいのに。その花なんですか、って、聞きたいな、葉月さんに)
そんなことをぼうっと考えていたら、しゃがんでいた人影が立ち上がってくるりと振り向いた。
「あ、起きたんですね、吉花さん!」
葉月ではなく、細川が嬉しそうに言う。ほほ笑む細川と目が合って、吉花は驚いて半身を起こす。
「へ? ど、どうして幸路さんがいるんです?」
訳が分からず混乱する吉花に、細川は心配するように眉を下げた。縁台に腰を下ろすと、吉花に枕元の茶を勧めながら、説明してくれた。
「あの、吉花さん、お店で倒れたんです。それで、お医者さんに診てもらったら疲れが溜まってる、寝れば治るっていうことだったから、うちの家で休んでもらったんです。うちの祖母が勝手に決めて、了承もなく運んでしまって申し訳ないですけど……」
細川の言葉を聞いても、吉花は自分が倒れたことを思い出せなかった。
覚えているのは、ばたばたと忙しかった店内が空いてきて、そろそろ片づけをはじめようかと思ったこと。
店内に残っている数名の客は、みな常連さんだった。そういえば、あの中に細川の祖母もいた覚えがある。細川の祖母も他の客も手元の皿が空になった人ばかりで、厨房から出てきた店長と世間話で盛り上がっているだけだから、もう注文が入ることもないだろう。吉花はそう考えて、まずは店の暖簾を仕舞おうと戸口に向かったのだ。そして、店の表に出て暖簾を見上げて……。
そこから先の記憶が無かった。
おそらく、そのときに気絶したのだろう。言われてみれば、なんとなく頭がくらっとしたような気もする。
上を向いたときに気絶したならば、頭から倒れ込んだのだろうか。それにしては、後頭部が痛むようなことも特にないけれど。
不思議に思いながら吉花が何気なく後頭部をさすると、細川があわあわと焦る。
「あの、もしかして頭が痛いんですか? 葉月さんが受け止めたはずなんですけど、もしかして、どこかぶつけちゃってましたか?」
心配そうな細川の言葉に、吉花はとっさに返事もできず固まった。
その間に細川が心配を濃くさせて、医者を呼ばなければ! と駆け出そうとするものだから、吉花は慌てて細川の袂をつかんで引き止めた。
「頭は平気です! 痛くありません! それより、あの、葉月さんが来たんですか!?」
着物をわしづかんで身を乗り出す吉花の勢いに押されながら、細川が頭をぶんぶんと上下させる。
吉花があまりにも迫ってくるものだから、縁側に押し倒されそうになるのを必死にこらえながら、細川はどうにかこうにか返事をする。
「は、はい! 僕は祖母に聞いただけなんですけど、吉花さんが倒れたときにちょうどお店に来たみたいです」
「ふふふ、そうなのよ。ちょうどね、あなたがふらついた時にいらして、すかさず抱き留めたのよ。映画のワンシーンみたいだったわあ」
弾んだ声で言うのは、襖を開けて現れた細川の祖母だ。吉花の顔色を見て、だいぶ良くなったみたいね、と言うと嬉しそうに続ける。
「あの方、葉月さんとおっしゃったかしら? いつもは優しい顔してらっしゃるのに、とってもきりっとしたお顔でてきぱき指示を出されてね。素敵だったわ」
うっとりする細川の祖母を見ながら、吉花はそのときの葉月を見たかったなあ、と少し悔しく思う。
いつになく真剣な顔で周囲に指示を出す葉月の姿を想像して、かっこよかっただろうなあなどと思っていた吉花は、そのあとの言葉で固まった。
「そうそう。葉月さん、あなたのことを抱き上げてうちまで運んだのよ。うちが近いから体を休ませるのにぜひ使ってと言ったら、すみません、お世話になります、なんて言って。お姫様抱っこで!」
うふふふふ、と頬を染める細川の祖母の声は、吉花の耳には届かない。
葉月が、自分を、お姫様抱っこ?
想像しようとしても、うまくいかない。頭のどこかがショートしてしまったかのように、思考が途中で停止する。
何の話をしているのだったっけ?
「ところで、葉月さんはどこ行ったんでしょうね。吉花さんを布団におろすなり、妖怪騒動を片付けてくる、って番所の方を連れて行っちゃいましたけど」
また来る、って言ってたのに戻ってきませんねえ、と細川がぼやけば、その祖母が大きくうなずく。
そうよねえ、ヒロインが目を覚ましたときには、戻ってきているべきよねえ、と続いた声は聞こえなかったことにして、吉花は葉月の行方を細川に問う。戸惑いながらも細川が教えてくれたのは思ったとおり、赤塚との待ち合わせ場所だ。
急がねば、約束の時間はもうすぐそこまで迫っている。早くしなければ。
心配する細川とその祖母をどうにかなだめて、吉花は家を出た。赤塚が待つ、葉月がいるだろうその場所へと急いだ。
着物でお姫様抱っこは、片平 久さまのエッセイを読んでいたおかげで出てきたシーンであります。
素敵なエッセイに感謝を。
ちなみに、葉月は美男子ではありません。