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うっかり、見てしまいました

 翌朝、吉花がいつも通りに仕事に向かっていると、番所のあたりが騒がしいことに気が付いた。

 昼間であれば、道に迷った観光客や江戸についての質問をしたい外国人客でにぎやかなのもうなずける。けれども、こんな朝早くににぎわっているのは珍しい。また何かあったのだろうか、と覗いてみると、番所の中にたくさんの人がいて、その誰もが森さんに話しかけている。


「おはようございます、また何かあったんですか?」


 人垣をくぐって吉花が声をかけると、気づいた田中が表に出てきてくれた。ちょっとここは騒がしいから、と言って田中が番所の外に出るので、吉花もついていく。


「春野さん、おはようございます。すごいでしょう。いま集まってるのは、他の番所の職員なんですけどね。森さんが倒せない壁の妖怪が出たと聞いて、詳しい話を知りたいって来てるんです」


 森さんがラグビーやってるのは職員の間では有名ですからね、と田中はなぜか自慢げだ。

 それにしても、昨日の今日でそんなにも話しが広まっているのはなぜだろう、と吉花は首をかしげる。森のことを話した昨日の夕方、駆け出した赤塚は聞き込みに行ったのだろうか。


「もしかして、赤塚さんがみなさんに聞いてまわったんでしょうか。赤い着物を着た、賑やかな方なんですけど」


 吉花が問うと、田中は大きく頷いた。


「どなたかまではわかりませんけど。昨日の夕方から夜にかけて、町中の番所を回って不審な壁の話しが他にないか調べてくれていたみたいです。素早い対応をしてもらって、ありがたいことですねえ」


 春野さんが連絡してくれたんですよね、ありがとうございます、と田中が嬉しそうに笑ったとき、番所の中でおお、とどよめく声がした。今度は何があったのか、と吉花と田中は連れ立って番所をのぞく。

 どうやら、妖怪について話すのを渋っていた森が、大勢に強請られてついに話しだしたらしい。どれくらいの大きさだった、押しても全然動かなかったのか、と口々に問う人々に森は、どうだったかな、うん、と返している。


「酔っ払って壁にぶつかっただけじゃないのか」


 次々と出される質問の合間に、誰かがからかうように言った。ざわついていた室内に妙に響いたその声に森が何か言う前に、田中が口を開いた。


「もう、そんなわけないじゃないですか。森さんは早番で出勤するときにそのぬりかべみたいな妖怪に会ってるんですよ。仕事前なんだから、飲んでるわけないでしょ〜」


 口を尖らせた田中の言葉に、どっと笑いが起こる。そりゃそうだ、いくら森が酒好きでもなあ、と集まった人々が頷いている。

 そんな人たちの向こうで森は困ったようなどこかほっとしたような、微妙な表情を浮かべている。みんなに注目されて恥ずかしいのかな、謙虚な人なんだな、と吉花が思ったとき、受け付けの中に立つ森と目が合った。はっとした顔の森に、吉花は頷きを返す。妖怪の話はしっかり伝えておきましたよ、という気持ちを目線に込めて。

 そんな吉花に森が何か言いたげな視線を送っていたので、吉花は微笑みを返す。あの視線に込められているのはどんな気持ちだろうか。

 伝えたいことがあるのに言葉が届かないもどかしさのようなものを感じた。きっとありがとうの意味がこもっているのだろう、と考えた吉花は、群衆の中で盛り上がっている田中に会釈して気持ちよく番所を後にした。

 赤塚は、今日にも森の元へ話しを聞きに来るかもしれない。もしも帰宅後に会えたら、話しを聞いてみよう。

 そんなことを考えながら番所を後にした吉花は、ふと通りの先に見慣れぬのぼりを見つけた。うなぎがくねったような文字でひえまきとある。

 名前からは何の店なのか想像がつかない。道ばたに置かれた天秤棒の両端に商品の入った箱がついているのは、よくある棒手振りの店構えだ。初めて見る店なので、季節ものの商品を扱っているだろう、ということくらいしかわからない。

 通りすがりにのぞいてみようかな、と思ったとき、吉花は天秤担ぎの向こうに見知った人の姿を見つけた。


(葉月さんだ)


 しばらく仕事で忙しくなるから会えない、と聞いたのが数日前だ。てっきり県内のどこかにある仕事場で働いていると思っていたのだけれど、もうこの町に戻ってきたのだろうか。

 いつもは股引きに半纏を羽織っている葉月が、珍しく着流しを着ている。爽やかな苗色の細縞の着物に黒に近い濃い緑色の帯を締めた姿は、見慣れないせいか常より何倍も格好良く見えた。

 あまり時間はないけれど軽く挨拶だけでも、と歩を進めた吉花は、葉月の横に誰かが立っていることに気がついて足を止める。

 女性だ。涼しげな青色をした絞りの着物に、白い帯が映えている。後ろ姿しか見えないけれど華やかな雰囲気が感じられるその人に、葉月が微笑みかけるのが見えた。

 優しい笑顔を浮かべた葉月が懐から取り出したのは、揺れる飾りが付いた細い棒。遠くてよく見えないが、かんざしだろうか。

 差し出された物をためらいもなく葉月の手から受け取った女性がそれを自分の髪に添える様を見て、吉花はさっと踵を返す。

 ほんの少し遠回りになる通勤路を進んだ吉花は、そこここですれ違う見慣れない店にも心動かされず、早足で歩いて行った。

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