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長屋、掃除しました

 ひとしきり笑って落ちついた田谷は、吉花の部屋の玄関に腰を落ち着けた。

 片足だけあぐらをかいてどっかり座りあぐらをかいて部屋の中を見回した田谷は、にいっと口の端をつりあげる。その顔にさっきまでの爽やかさはない。


「やあやあ、本当に綺麗にしたね。これはすごい」


 そう言っておいでおいでと吉花を招き寄せ、隣に座るように促した。首を傾げながら近づいた吉花が、適度な距離をとって腰を下ろしたのを見て田谷はにこにこ笑う。


「こんなときにわざわざうちの長屋に住みたいと言ってくるなんて、また俺の顔目当てかと思ったけど、違うみたいだね」


 田谷が、警戒してごめんごめん、と謝る。よくわからない吉花は、はあ、とぼやけた返事しかできない。それよりもこんなときとはどういうことか、と吉花が尋ねるよりも早く、田谷が口を開く。


「心配してくれるのはありがたいけど、実は空き部屋は全部、入居者が決まってるんだ。来るのは全員三日後だから、静かなのは今だけだよ」


 いたずらっぽく笑う田谷に、吉花はぺこりと頭を下げた。


「それはたいへん失礼をしました。ということは、私はとても運がいいのですね」


 ひとつだけの空き部屋に滑り込めたのだから、自分の運もまだまだ捨てたものではないな、と吉花は喜ぶ。就職活動では散々だったが、これから運気が向いてくるのかもしれない。

 そんなことを考えてにこにこしている吉花を眺め、田谷は煙管キセルを懐にしまう。そんなことをして火傷をしないかと心配で見ていれば、くすっと笑って教えてくれた。


「これね、電子タバコの煙管版。俺が咥えてると、様になるでしょ」


 おどけたようにそう言って、田谷はもう一度取り出した煙管を吸ってみせる。その口からふうっと白い煙が吹き出されたのを見て、吉花は煙草臭さを覚悟した。


「……あれ? 煙草の匂いじゃない?」


 鼻に届いたのは苦い匂いではなく、爽やかな香り。柑橘の香り? と首をかしげる吉花に、柚子だよ、と田谷が教えてくれる。


「煙草臭いのは俺に似合わないからね。それに、灰の始末やら面倒臭いし。だから、お手軽なこいつを愛用してるんだ」


 本当はこの町に電化製品これなら火事の心配もないから、そう言ってから田谷がにっこり笑い、吉花はつられて笑い返す。


「それでさ、さっきの話に戻るんだけど。三日後に入居者が来るから、管理人として部屋を掃除しなきゃいけないんだよね。引き渡すときはやっぱりきれいな部屋じゃなきゃ困るでしょう?」


 うんうん、と頷く吉花に、田谷はわかってくれて嬉しいよ、と微笑んだ。きれいに微笑んでから、すぐ悲しげに眉を下げる。


「だけどねえ、俺に掃除って似合わないと思わない?」


 吉花は、うん? と首をかしげた。それにあわせて首をかしげた田谷が、眉を下げたまま言う。


「空き部屋を引き渡す前にはひと通り掃除をしなけりゃいけないんだけどさ。でも、考えてみてよ。俺がぞうきんを持ってせっせと床を拭いている姿。汗水垂らして水桶を運んでいるところ」


 言われるがまま素直に想像してみた吉花は、働き者の爽やかなお兄さんを思い浮かべる。けっこう似合うと思いますよ、と告げる前に田谷が口を開くのがわかり、吉花はおとなしく聞いてみる。


「ちょっと柄じゃないし、俺、掃除って苦手なんだよね。だからさ、申し訳ないんだけど、吉花ちゃんにお願いできないかな。部屋の掃除」


 突然の申し出に吉花がきょとんとしていると、断られると思ったのだろうか。田谷が慌てて付け足した。


「いやいや、もちろんただでとは言わないよ。この部屋の家賃一か月ぶんと引き換えに、ってことで。どうかな」


 その言葉に、吉花の目がきらりと光る。無駄に終わった就職活動のせいで、学生時代にアルバイトをして貯めたお金は激減している。就職できなかった身で親にお金をねだるのも、心苦しい。

 そんな吉花に、さんの申し出はとてもありがたい。ちょうど、今日から二日間は引っ越しやらでばたばたするだろうと、小料理屋の仕事も入っていない。出来過ぎなくらいに好都合だ。そう思った吉花は、なにやら小首をかしげて、だめかな? と言っている田谷など気にもとめず、笑顔で引き受けた。


「素人の掃除の域を出ませんが、それで良ければ喜んで!」


 それを聞いて田谷は、ぱっと顔を輝かせる。


「本当? 助かるよ。いやあ、引っ越してきたのが吉花ちゃんで良かった。空き部屋になるはずのところにきた子が掃除の上手ないい子だなんて、俺のほうこそ運がいいなあ」


 嬉しそうに言う田谷に、吉花も嬉しくなる。就職活動では吉花で良かったなどと言ってくれる人はおらず、自分には価値なんてないのだと落ち込むばかりだった。

 じんと胸をしびれさせる喜びに浸る吉花に、田谷がすっと右手を差し出してくる。


「遅くなったけど、うちの長屋へようこそ。これからよろしくね」


 一拍置いて差し出された手を両手で掴んだ吉花は、田谷の手を握ったままぶんぶんと上下に振った。


「こちらこそ、これからお世話になります。よろしくお願いします!」


 こうして、吉花の江戸生活がはじまった。

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