久しぶりの、賑やかな朝です
翌日の朝、吉花がかまどから鍋を下ろしていると、戸口の外で誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「はーい」
返事をした吉花は、鍋を置いてそのまま戸口に向かう。何度か買って馴染みのある棒手振りさんが、豆腐を売りに来たのかもしれない。少し前に、豆腐ぅ、豆腐ぅ〜と声がしていたから。そう思ってがらり、と戸を開けると、そこにいたのは見知った顔。けれども、棒手振りではなくて、葉月が立っていた。
「おはよう、吉花さん。昨日の今日だけど、さっそく来ちゃったよ」
言いながら葉月は、手に持った魚の干物と揚げの入った椀を吉花に渡してくる。
「おかずを買いに出て戻ろうとしたら、ちょうど豆腐売りの人と会ってね。うちの長屋に来ようとしていたから声をかけたら、吉花さんがよく買ってくれるって話してくれて。ちょうどいいから手土産に、と思って」
適当に使ってくれる? と言う葉月に、吉花は喜んで頷いた。
「ちょうど、青菜のお味噌汁を作ろうと思っていたんです。揚げを刻んでいれるとおいしいので、とってもぴったりで嬉しいです」
にこにこしながら青菜を刻む吉花の横で、葉月は干物を炙っている。部屋に備え付けの七輪にかまどの炭を入れ、慣れた様子で焼き網を熱して魚を乗せる。
そうして、吉花が味噌を溶き終えたときには、ほどよい焦げ目のついた干し魚が焼きあがっていた。
蒸らし終えたご飯の炊き具合も上々。青菜と揚げの味噌汁もちょうどいい塩梅。熱々の干し魚は身が厚く、ほくほくとおいしそうな湯気をあげている。
理想的な朝食が揃ったところでさあ食べよう、とたすき掛けにしていた袖に手を伸ばした吉花は、にこにこと自分を見ている葉月に気がついた。
「ええと……?」
ごみでも付いているだろうか、と袖や前掛けを確認する吉花に、葉月がじろじろ見てごめんね、と頭をかく。
「いや、前掛けもたすき掛けも、前はしてなかったからさ。吉花さんも着物姿が板についてきたなあ、って思ってね」
葉月の言う通り、この町に来たばかりの時は胸元を締め付ける着物がきゅうくつで、袖や裾の長さを持て余して動きづらくて仕方がなかった。
それが、今では違和感なく着物を着て、前掛けを締めるのもたすき掛けをするのも、自然にこなしている。
自分ではずいぶんこの町に慣れてきたように思う。周囲から見て少しはこの町に馴染めているかな、と吉花が思ったとき、葉月がにこっと笑って言う。
「似合ってるよ」
ぼっ、と体に火がついたかと思った。
嬉しい。驚いた。嬉しい。恥ずかしい。体が熱くて、頭がぐるぐるする。
似合っているということは町に馴染めているということで、それは喜ばしいはずなのに、お礼を言おうと葉月の顔を見るたびどうしてか俯いてしまって、すんなりと言葉が出てこない。
「……はい、あの……ありがとう、ございます」
吉花は下ろした袖をもぞもぞといじりながら、下を向いてようやくそれだけを口にする。
そうしてどうにか食べはじめると、部屋には妙な沈黙が広がる。嫌な雰囲気ではないけれど、なんとなく落ち着かない静けさの中で、吉花はせっせと箸と口をうごかす。おいしいはずの朝食の味は、よくわからない。
「そうだ。昨日はあのあと、何事もなく帰れた? 変なことに巻き込まれたりしなかった?」
思考を繰り返し上滑りさせていた吉花は、葉月にかけられた言葉にはっとする。
いまならば、食事の合間の他愛のない話として狐の話ができる。これは細川の問題を相談するまたとない機会。そう考えた吉花は頭を切り替えると、口の中身をもぐぐと噛んで飲み込んだ。
「……という感じで、幸路さんはその女性が狐なのかどうか、悩んでいるんです」
細川さん家に突然現れた同居人について説明した吉花に、葉月はふうん、と気の無い返事をする。
「このあいだ会った彼、ね。こうじさん、ね」
どこか冷めたような目で葉月が呟く。その様子に、やはりちょっと怪しい人がいる程度では調べてもらえないか、と吉花は情報を付け足した。
「それから昨日の夜、幸路さんの家に居候している方を見かけたんです。昨日、葉月さんとのっぺらぼうさんと別れた後、私が出られなくなっていた細い道からその女性が出てきたんです」
「へえ、ひとりで? 居候している家があの路地の向こうにある、ってわけでもないんだよね?」
葉月の問いに吉花は頷く。
「おひとりでした。進んで行ったのは幸路さんの家がある方面でしたけど、毎日朝早くに出かけるそうなので、あんな時間までお仕事とも思えなくて。荷物を持っている風でもなかったので、お風呂帰りでもないと思うんです」
これで駄目ならもう一度、細川と一緒に彼女を尾行しよう、と吉花が思っていると、葉月がうーん、と唸る。
「今の話だけでその女性のことを判断をするのは難しいから、ちょっと調べてみるね。その女性の名前と、居候している家の場所を教えてくれるかな。幸路くんの家の場所を、ね」
言いながら、懐から和紙を束ねたメモ帳と筆ペンを出した葉月に、吉花は喜んだ。これで細川の心配ごとが解決するかもしれない。嬉しくなった吉花は、食事をはじめたときの落ち着かない気持ちなどいつの間にやら忘れていた。
細川家に関する気がかりが減った吉花は、今日はヨルさんや他の方は一緒じゃないんですね。ヨルはちょっと用事で他は町の外にいるよ。などと、他愛ない会話に興じるのだった。