脱出、成功しました
吉花の声に振り向いたのっぺらぼうの顔には、鼻眼鏡。その姿に、吉花は恐怖と緊張が吹き飛んだ。
駆けてきた勢いそのままにのっぺらぼうの差し出す手を取れば、どこかでぱきん、と音がして、あたりにざわめきが戻ってきた。
「帰って、こられた……?」
呟きながら振り向けば、 そこには空に浮かぶ月がある。けれど、それは異様な恐ろしいものではなくて、暗い夜空に優しい光を灯すいつもの月だった。
その静かな明かりにほっとしたところで、吉花はのっぺらぼうの手を握ったままだと気がついた。感謝の言葉を述べて離そうと思ったとき、ふと気になってその手を持ち上げてじっと見てみる。
ゆで卵のようにつるりと綺麗な顔をしたのっぺらぼうは、思ったとおり、手も綺麗だ。
色が白いのはもちろんのこと、すべすべとした指は細長く、爪の形も整っている。手の甲も滑らかで、余計なしわやささくれなど見当たらない。
これは妬ける。ろくな手入れもせずこんな綺麗な肌や手をしているのだと思うと、日々、米ぬかで体や顔を洗ったり、水仕事の後や寝る前に化粧水といって売られていたへちま水を塗ったりと保湿に努めているのが馬鹿らしく感じてしまう。
そうして吉花がのっぺらぼうの手をとり凝視していると、不意に誰かに肩を叩かれた。
「何をしているのかな?」
声のするほうを振り向けば、そこにはにっこり笑う葉月がいた。
「葉月さん、こんばんは! お久しぶりですねぇ」
思わぬところで思わぬ人に出会えて、吉花は笑顔になる。にこにこ笑って葉月に向き合った吉花の後ろでは、のっぺらぼうが手をとられていた姿勢のままで固まっていた。
「吉花さん、こんばんは。こんなところで、のっぺらぼうと、何をしていたのかな?」
葉月の妙に力のこもった口調に、のっぺらぼうはびくりと肩を震わせる。それに気がつかず、吉花はご機嫌に胸の前で手を合わせる。
「さっき危ないところをのっぺらぼうさんに助けてもらったんですけど、そのとき手をつないだらもう手がすべすべで! しかも指も長くて綺麗で、羨ましいなあ、と思って見せてもらっていたんです」
笑顔で告げた吉花の言葉に、葉月がぴくりと反応する。
「危ないところを助けられた、っていうのは、どういうことかな。詳しく聞かせてくれるよね?」
笑顔から一転、真面目な顔になった葉月に、先ほどの出来事を話す。おかしな月の見える場所から出られなくなったこととのっぺらぼうに助けてもらったこと。
それを聞いて、葉月は優しく微笑んだ。
「良かった、吉花さんが無事で。のっぺらぼうも、ありがとう。いつも助かるよ」
「いつも、ということは、さっきの不思議な出来事はよくあることなんですか?」
のっぺらぼうに向けられた言葉に、江戸ならではの現象なのだろうかと、吉花は首をかしげる。それをみて、葉月は苦笑いを浮かべた。
「困ったことに、ここ数日はときどき起きている現象だね。吉花さんのように、道に迷わされて出られなくなった人をのっぺらぼうが助けてくれるんだけど、原因だと思われる狐が、なかなか捕まらなくて」
町のあっちこっちで騒動を起こしてくれるおかげで忙しくて、とこぼす葉月は、どこかくたびれて見える。彼の体調が心配になった吉花は、せめて、と手にしていた笹折を差し出した。
「あの、これ屋台で買ったものなんですけど、良かったら食べてください。忙しいときほどしっかり食べないと、体が参ってしまいますから」
お節介と思われるだろうか、と遠慮がちに勧める吉花に、葉月は嬉しそうに笑う。
「心配してくれてありがとう。それじゃあ、ちょっといただこうかな」
その場で折を開けた葉月は中身を見て、ああやっぱり、とこぼす。吉花から受け取った箸でつまみあげたのは、おでんの具。
「吉花さんが狙われた原因は、たぶんこれだね。このもち巾着。これまでも油揚げを持っている人ばかりが狙われているから、やっぱり狐の仕業というのが濃厚だな……」
言いながらもち巾着を頬張った葉月は、ごちそうさま、と言って笹折を吉花に返す。丸ごと渡して持って帰ってもらうか、休憩時間に食べてもらうつもりだった吉花は、受け取るのを渋るけれど、葉月も譲らない。
「屋台も悪くないけど、俺は吉花さんの手料理のほうが嬉しいから。また今度、ご馳走してほしいな、なんて」
照れたような笑顔で言われて、吉花は顔を赤くする。
「わわ、わたしの手料理、ですか。まだまだ大したものは作れないんですが、それでも良ければ、あの、いつでも、どうぞ……」
尻すぼみになりながら慌てて言う吉花に、葉月が嬉しそうに笑ってありがとう、と言う。
そして、近いうちにお邪魔するよ、と手を振った葉月は、のっぺらぼうを連れて先ほど異変のあった小道へと歩いて行く。姿が見えなくなる前に振り向いた彼は、もう大丈夫だとは思うけど気をつけて帰ってね、と言って去っていった。
笹折を胸に抱えた吉花は、遠ざかる背中を見送る。
その後ろ姿が見えなくなってもしばらくぼんやり見ていると、二人が入って行った小道から出てくる人がいた。
「あれ……?」
木綿の着物に身を包んだその人は、見覚えのある顔をしている。つり目が特徴的な美人、稲荷さんだ。
小道から吉花のいる大通りに出てきた稲荷さんは、荷物らしい荷物は持っておらず、その手はひるがえる袖を押さえているばかり。立ち並ぶ屋台に目もくれず、草履を鳴らして足早に去っていった。