ちょっと様子見、です
これ以上の情報を細川の祖母から得ることはできないだろう、と見切りをつけた吉花は、のんびりとお茶を飲んで手土産の餅を食べ、四方山話に花を咲かせることにした。
「ここのうぐいす餅もなかなかだけど、あそこ。店から一番近い薬種問屋さんあるでしょう? あそこの角を左に曲がって、少し行ったところにあるお菓子屋さんも、なかなかいいものですよ」
細川の祖母が言えば、吉花が食いついて詳しい場所を聞く。
「そうだ、わたしこのあいだ、端切れ売りさんを見かけたんですよ。ちょっと変わった柄や色の布ばかりで半衿にちょうど良さそう、って思ったんですけど、半衿ってどれくらいの長さの布なら作れるんでしょう?」
吉花が話せば細川の祖母が説明し、さらに実物を広げて見せてくれる。
終わりの見えない会話に細川はお茶のお代わりを淹れ、空になった餅の皿を下げて別のお菓子を持ってきては、横であいづちを打つばかり。
結局その日は稲荷さんについてそれ以上の話は聞けず、吉花が考えつく情報収集の方法はもう底をついてしまった。行動を起こそうにも何をしていいかわからない二人は、しばらくは様子見をしつつ細川が情報を引き出す、という作戦を取ることにした。
そして進展もせず、格別な問題も起こらないまま数日が経つ。その間にも狐に化かされたと駆け込む人が詰所に駆け込んだ、という話や、人通りの少ない路地を歩く狐を見た人がいる、という噂が小料理屋で働く吉花の耳に入ってきた。
その合間に店を訪れた細川がもたらした情報といえば、
「稲荷さんと挨拶を交わせるようになったんですよ」
「稲荷さんは大根と揚げの味噌汁が好きなんですって」
「稲荷さんがぼくの手料理や掃除を褒めてくれたんです」
というものばかり。
稲荷さんの正体を確かめるためには役に立たない情報ばかりだけれど、ゆっくりではあるが細川が親しくなっているようで、その点については吉花は安心していた。
そんなある日、仕事を終えて湯屋に行った帰り道、すっかり日が落ちた路地を吉花は歩いていた。
のっぺらぼう騒ぎが起きていたころは、日暮れ後には明かりもなく出歩く人の姿も見られなかった。それが今では、提灯片手に人々が行き交い、袂を翻して帰路を急いだり、道ばたに止まる屋台ののれんを揺らしている。
これも、葉月さんたちがのっぺらぼうのことを町の人々に話して回り、無害なことを周知してくれたおかげだなあ、と吉花は微笑む。
湯屋で温まったうえに気持ちまでほっこりと暖かくなった吉花は、どこかの屋台で夕食を済ませるのもいいな、と思い至る。江戸の世の若い娘は日暮れ後にひとりで出歩いたり、屋台にふらりと立ち寄ったりしなかったかもしれないが、そこはよく言えば寛大、悪く言えば大雑把なこの江戸もどきの町だ。観光客が楽しんでくれて、町人も楽しめるならばそれでよし、という気風である。
さて、どこの店にしようか、と吉花は辺りに点在する屋台を見回した。出汁のいい匂いをさせている蕎麦屋は、肌寒さの残る今日のような日には人気らしく、屋台の周りには立って蕎麦をたぐる人の姿が散見された。
「うちは鮮度が売りだからね。江戸の町でこんな屋台を構えちゃいるが、魚の品質なら二十一世紀の飲食店にも引けを取らないよ」
道行く人にそう声をかける鮨屋もいる。近くで話しを聞いてみると、表に並んでいるのは食品サンプルで、実際の食材は保冷剤入りの木箱にしまってあると観光客らしき人々に説明しているのが聞こえる。
その隣の燗酒を売る店に縁はないけれど、気持ち良さげに盃を傾ける客の姿を見るといつか立ち寄ってみようかな、という気持ちになる。熱々のおでんが並ぶ屋台も捨てがたいし、じゅわじゅわと音を立てて揚げられる天ぷらも魅力的だ。
あっちにこっちに目移りしたあとで、吉花は色々なものを少しずつ買って帰ることにした。持ち帰りができるか聞いてみたところ、笹折という薄い木の板でできた弁当箱があると言う。
ならば、とおでんをいくつかと野菜の天ぷらを買って笹折に入れてもらい、こっちにも店があるかな、と何気なく道を曲がる。
途端に、先ほどまで聞こえていたざわめきが消え、空気もどこか冷えたように感じられた。
この感覚に、吉花は覚えがあった。のっぺらぼうと出会ったあのときにも、こんな雰囲気を味わったのだ。今度は一体何が現れるのか、と吉花は着物の袖を握りしめて身構える。
表通りから漏れる明かりは頼りなく、薄暗い小道を見通すことはできない。それでも暗がりの向こうに何かが潜んでいやしないかと目を凝らす吉花は、はたと気がついた。
月が、大きい。
いや、大きいという括りで片付けられるものではない。近くにある長屋の屋根に収まりきれないほど、大きい。
のっぺりと鈍い山吹色に光る月は明らかにおかしくて、吉花はじりじりと後ずさりする。その動きに合わせて月も動いているような気がして、怖くなった吉花は踵を返して駆け出した。
「はあ、はあ、はあっ」
どれくらい走ったのだろう。運動不足の上に着物を着ているものだから、なかなか前に進まない。さっき曲がったばかりの大通りに出られない。
荷物を抱きしめて必死に走りながら、吉花はちらりと空を見上げる。
ついてきている。
異様に大きな月が、ついてきている。先ほどよりもさらに大きくなった月は、夜空を覆い尽くすほどに広がっていた。
目にした途端、ぞっとした吉花はまた前を向き、足を動かす。
胸が苦しい。足がもつれそうだ。あの月に追いつかれたらどうなるのだろう。
疲労と恐怖で混乱する頭のまま走り続けるけれど、視界に映るのはどこまでも続く細い路地ばかり。立ち並ぶ家々の戸は固く閉ざされて、漏れる明かりのひとつもない。
もう駄目かもしれない。きっと今に追いつかれてしまう。
気持ちが弱って走るのを止めてしまおうか、と吉花が思ったとき、いくら走っても代わり映えがしなかった路地に、小さな明かりが見えた。
たったひとつ、頼りなく揺れる明かりは、希望の光だ。
気力を振り絞り、吉花は走る。
行けども行けども変化のなかった夜道に差した、ひとすじの希望。走ればだんだんと近づくその光に、気持ちが高ぶってくる。
点のようだった明かりが大きくなるにつれて、それが提灯の明かりだということがわかってきた。そして、それを持つ着物の男が見える。男の頭には頬っ被り。俯いて、顔の見えないその姿に、吉花は叫ぶ。
「のっぺらぼうさん!」