大事なことに、気がつきました
あっと言う間に去って行った葉月に、吉花と細川は顔を見合わせる。
「ええと、あの方は吉花さんの彼氏さん……ですか?」
遠慮がちに聞く細川に、吉花が慌てて否定する。
「いえいえ、あの方は葉月さんと言って、ヨルさんたちと一緒に妖怪騒ぎを解決するためにこの町に来ていて。私はたまたま同じ長屋に住んでいたから、ちょっとお付き合いがあって。あ、お付き合いと言ってもあの、ええと、そういうお付き合いではなくてご近所付き合いで……」
必死で言いつのる吉花の顔は真っ赤だ。先ほどの葉月の態度も見ていた細川はてっきり付き合っているものだと思っていたのだけれど、この様子では吉花の言うとおりご近所付き合いしかないのだろう。
お互いに好意は持っていそうなのにな、と思いながら細川は首をそうですか、と言うにとどめた。一緒にいても気を張らなくていい吉花とは友だちになれるといいな、と思うし友だちの恋路は応援したいとも思う。しかし、恋愛経験がないどころか自分に自信もない者にできるアドバイスなんてないからと、こっそりうまくいくといいな、と思うに留めた。
「そんなことよりも、ですよ」
頬に手を当てて赤面を治した吉花が、改めて口を開く。
「そんなことよりも、今は幸路さんのお話です!」
急にきりっとした顔で力強く宣言した吉花に、細川は気圧される。はあ、と力ない返事をする細川に、吉花がきゅっと眉毛を吊り上げる。
「どうして尾行が失敗してしまったのか、考えたんです」
幸路さんは思い当たることがありませんか、と吉花がたずね、細川がええと、と視線をうろつかせる。
「ええと、ぼくが着物でうまく歩けなくて、そのせいであの人を見失ってしまったから……」
言っているうちに申し訳なさが蘇ってきた細川は、どんどんと俯いていく。けれど、その声をさえぎって吉花が口を開く。
「それもちょっとはありますが、もっと根本的な問題があったんです!」
吉花の言葉に顔を上げた細川は、目をしばたたかせながら続きを待つ。
「わたし、あの女性の名前も知らないんです!」
ぐっとこぶしを握った吉花に力強く言われて、細川は衝撃を受けた。
吉花に相談を持ちかけたのは昨日のこと。そのときに話したのは彼女が細川家に来た状況や祖母の対応、自分への態度など。そして今朝は訪ねてきた吉花に連れられて家の近くの路地に隠れ、調査の基本は尾行ですよね! と家を出てきた彼女の後を追いかけたのだ。
そうやって思い返して、彼女自身についての情報は綺麗な女性であることくらいしか話していないことに、細川は言われてようやく気がついた。
気がついたことで細川が自分の至らなさに落ち込むよりも早く、吉花がにっこりと笑って手を合わせる。
「というわけで、今からあの女性の情報をまとめましょう。お餅をいただきながら」
いただきます、と手を合わせたまま言う吉花につられ、細川も餅に手を伸ばす。
添えられた黒っぽい木の棒でうぐいす餅を切り分ければ、もっちり優しい抵抗がある。ひと口大にした餅を刺して、ほろほろとこぼれるきな粉をできるだけ落とさないようにしながら口に運ぶ。口に入った柔らかな餅から棒を引き抜くときに、柔らかいだけではない弾力。ほろり、と舌にこぼれるきな粉の香りを楽しみながら餅を噛めば、柔らかい餅に包まれた餡のほのかな甘みが加わって、舌に幸せをもたらした。
ついつい次のひとくちに手が伸びる細川の横で、吉花も幸せそうに顔を綻ばせている。
「おいしいですねえ。江戸時代にはお砂糖が貴重だったから、この町の甘味はとっても甘さ控えめなんですって。だけど、じゅうぶんおいしいですよね」
にこにこと言う吉花になるほど、と頷いてから、細川はあたりを見回した。縁台の間を縫って歩く前掛け姿の女性が、客に呼び止められては手に持つやかんの中身を湯のみに入れて渡しているのだ。湯のみから立ち上る湯気を見るに、あれはきっと温かい茶を配って歩いているのだろう。
きな粉の残る口で飲むお茶はさぞかしおいしいだろう、と思いつつも、細川は声をかける勇気が出ない。かと言って諦めることもできず見つめていると、視線に気がついたのか女性はにこりと笑って茶を淹れてくれた。
ありがとうございます、と礼を言って受け取る吉花の横で細川はぺこぺこと頭を下げる。
会釈をして女性が去ると二人して茶を飲み、ひと息ついた。
「さて、それでは敵……かどうかまだわかりませんけど、怪しい女性の情報を整理してみましょう」
湯のみを片手に吉花が話し始める。
「えっと、そうですね。まずはあの女性の名前を教えてください」
「あ、はい。ええと、稲荷さん、と祖母は呼んでいました」
細川が答えると、吉花はふむ、と真剣な顔をする。
「稲荷、ですか。いかにも狐と関係のありそうな名前ですね」
ふむふむ、と頷いた吉花は質問を続ける。
「それでは、下の名前は何というのですか?」
聞かれて口を開きかけた細川は、はたと動きを止めて沈黙した。
「どうしたんですか?」
黙り込む細川に、吉花が首を傾げる。
それにも返事をせずしばらく沈黙して、ようやく細川は口を開けた。
「……わかりません」
「え?」
細川がぼそりとこぼした言葉を拾いそこねて、吉花が聞き返す。
「苗字以外、なにも知らないんでした……」
再び、二人の調査は暗礁に乗り上げた。