住処、決まりました
江戸風の町へと姿を変えた故郷は、住人すべてが町を作る従業員という考えにより、住んでいるだけで県から少額ではあるが給料が支払われる。
この制度のおかげで、電気もガスも車もない不便な暮らしを受け入れ、住み続ける人びとがいるのだ。また県からの給料とは別に、商いをすれば儲けになり、働けば賃金がもらえる。
つまり、就職活動に失敗した私でも住むだけでお金がもらえて、さらに仕事を見つければ収入が増えるわけである。
それならば、不便さなんて何のその。小料理屋の手伝いというアルバイト先を見つけ、県からもらえる特別居住区住民手当(前述の県から支払われる給料の正式名称だ)の範囲内で住める格安の長屋を小料理屋の店主から紹介してもらい、私、吉花はこの春から江戸の町に住むこととなった。
きゅきゅっと床を拭き上げて、室内の掃除はおしまいだ。汚れた手ぬぐいを水を張った手おけの中に入れて、立ち上がる。
「田谷さーん! このお水、どこに流したらいいですか〜?」
住所を江戸に移した吉花が着ているのは町娘風の着物。県からの支給品である。帯はマジックテープで留めるなんちゃって帯なので、初心者でも簡単に脱ぎ着ができる。とても便利。
髪の毛は日本髪が結えるほど長くはなかったので、肩口で切っておかっぱにしてある。あくまで江戸風の街並みなので、観光客が違和感を抱かないようにそれっぽい格好なら良いらしい。
長屋の一室から出てきた吉花は、少し不恰好なたすき掛けをして履き慣れない草履に苦戦しながら表に出る。
「汚れた水はそこ、小屋があるでしょ。その中の穴に流しといてくれりゃあいいよ。それトイレの模型なんだけど、模型の下に下水管が繋がっててちゃんと下水処理場に流れるから、大丈夫だよ」
そう言って井戸の横の小屋を示すのは、田谷。このあたりの土地を所有している老婦人のお孫さんだそうで、長屋の管理人をしている。つまり格安で部屋を貸してくれたありがたい大家さまである。吉花がアルバイトをする小料理屋の店主と田谷のおばあさんが友人同士だとかで、今回、住まわせてもらえることになった。
田谷は吉花が住む長屋の向かい側にある二階建ての長屋の一室に住んでいるとのことで、今日の引っ越しにちょこちょこと顔を出し、自宅の玄関口から口を出してくれている。
「吉花ちゃん、ずいぶんと張り切って掃除してるね」
着流し姿の田谷が、煙管を片手にたずねてくる。家の柱に肩をもたれさせて立っており、普通ならだらしなく感じるのだろうけれど、なんだかとても様になっている。
顔の良い人は得だなあ、とぼんやり見つめていれば田谷がにっこりときれいに笑う。
「どうしたの。もしかして、俺に見とれちゃった?」
言われて、改めて田谷の頭のてっぺんから足の先までじっくり見てみる。
年齢は二十代後半くらいだろうか、男盛りという感じである。
髪型は、耳が半ばまで隠れるくらいのショートヘア。ちょっと明るい茶色の髪はセットしているのか、くせ毛なのかわからない無造作な感じだけれど、清潔感はある。ヘアカラーは禁止されているから、地毛なのだろう。
顔は、髪の毛と同じく色素が薄いのか、色が白い。眉毛はすっと形良く整っていて、優しげに細められた目と相まって爽やかな雰囲気だ。すっきりした鼻と笑みを浮かべた口のバランスも良い。
体はすらりとしているが決してひ弱な印象は与えず、高めの部類に入るだろう身長に見合った長い手足は羨ましいくらいだ。平均身長に届かない吉花に分けてくれてもいいと思う。
ふむふむ、と頷きながら吉花が観察している間、田谷は黙って待っていた。そんな彼の目を見て、まじめな顔をした吉花はひとつ頷く。
「田谷さんは、ポスターを作るといいですよ」
「へ?」
力の抜けた声を出した田谷は、ぽかんと口を開けて間抜けた顔をしているはずなのだが、それでも不細工にはなっていない。それを見て、吉花は改めて力強く頷いた。
「せっかくとても見栄えのする顔を持ってらっしゃるんですから、田谷さんがこちらの長屋の大家さんですよ、とわかるポスターを作れば、入居者がたくさん来ると思うんです」
言いながら、吉花は自分の住まいとなる長屋に目を向けた。四部屋ある長屋と三部屋ある長屋が並んで建っており、どの部屋も同じ間取りのようだ。吉花の部屋は三部屋ある長屋の真ん中の部屋で、ひとつ部屋を挟んだ向こうに井戸とごみ捨て場、それからトイレの模型がある。
かまど付きのワンルームは収納のない板張りで、ぱっと見不便そうである。しかし、実は各部屋にトイレと押入れが付いているという素晴らしい部屋なのだ。
本来の江戸であれば井戸の近くに共同便所があるらしいのだが、ここはあくまで観光地として作られたなんちゃって江戸の町。悪臭や衛生管理の問題から、そこは模型で再現されたらしい。
そのため、この下町にある家々では、壁にしか見えない部屋の一部が引き戸になっていて、隠しトイレがついている。そして田谷の長屋では押入れまで備え付けられており、さらにこの長屋は格安だというのに入居しているのは吉花ひとり。
これは宣伝方法に問題があると、吉花はしごく真面目な顔で提案したわけであった。
その結果。
「ははっ。あはははは!」
なぜか、田谷は大笑い。
体をくの字に曲げて腹を抱え、きれいに微笑んでいた顔は大口を開けて目尻に涙まで浮かべている。
どうして突然、笑い出したのか吉花にはわからないが、楽しげな様子につられて笑えば、田谷はますます笑う。
なんだかぐっと距離が縮まったような気がして、吉花はにこにこしてしまうのだった。