道案内、しています
「あの、本当に、助かります。すみません」
おどおどと俯き加減で、何度目かの感謝と謝罪を口にする男に、吉花はにこりと笑う。
「いいえ、私に案内できる場所で良かったです。私もこの町に住み始めて浅いですから、知らない場所のほうが多いもので」
先ほど出会ったこの男。どうにも着物が馴染んでいないと思ったら、今朝この町に越してきたばかりらしい。そう言われれば、やたらと大荷物なのも納得だ。
よく見れば、男の腕にある荷物や背負われている荷物を包む布は江戸の町課が貸し出してくれるもので、吉花もお世話になった覚えがある。きっと、あの布の中には男の荷物がつまったボストンバッグやキャリーバッグが入っているのだろう。表通りを歩くだけならば問題ないのだけれど、裏の長屋などに入るためには、江戸っぽい格好をせねばならないのだ。
「でも、良かったです」
男を案内する道の先に目をやり、吉花はほっと息をつく。
「細川のおばあちゃん。このところ足腰が弱ってきたって言っていたから、お孫さんが一緒に住んでくれるなら安心です」
言いながら吉花が思い浮かべるのは、アルバイト先の小料理屋にしばしば訪れる老婦人の顔。男が探していた細川婦人は、小料理屋の近くにある長屋の大家をしている。夫に先立たれ、身内は皆、江戸の町の外に行ってしまったそうで、ひとり暮らし。
この町は人と人との距離が近いから寂しくはないのよ、と言っていたが、弱る体はどうにもならず、近ごろは気持ちも塞いでいるようだった。
おっとりと優しい人で、吉花も仕事の合間に手洗い洗濯のコツや着物でのおしゃれの仕方などを教えてもらったこともあり、最近は元気がないと心配していたのだ。
「はあ、そうですか。それは、良かったです」
どうにもはっきりしない返事をする男は頼りない。それでも、一緒に暮らす者がいるのといないのとでは、細川婦人の気持ちも随分と違うだろう。
この話をすれば、小料理屋の店主もきっと喜ぶだろう。細川婦人とは付き合いが長いようで、いつも心配していたのだ。
寄り道をしてみるのもたまにはいいものだな、とご機嫌な吉花は、のろのろと進む細川の孫を連れて歩いていく。
そんな二人を追い越す、ひとりの人。ずいぶんと慌てた様子のその人は、番所とは名ばかりの観光案内所にかけ込んだ。
「た、た、助けてくれっ。刀を持ったお侍に、追いかけられてんだっ!」
番所の中から聞こえる大きな声。その物騒な内容に吉花と細川の孫は顔を見合わせ、男が駆けてきた通りを振り向いてみる。人が増え始め、ざわめきを増した通りに響くのは、威勢のいい振り売りの声。悲鳴や怒号は聞こえてこない。
不思議に思った吉花が番所の中をのぞいてみると、駆け込んだ男が番所のカウンターに身を乗り出している。股引きに腹掛けをして鉢巻を締め、裾の短い着物を腰のあたりに端折っている男のその姿から、男の仕事は飛脚なのだろうと想像できた。
まずは落ち着くように言う番所の職員に、飛脚の男は興奮したまま唾を飛ばす勢いで話し始めた。
前後したり、横道にそれたりしながら語られた話をまとめると、こうだ。
人通りの無い道を走っていたら、侍の格好をした人とぶつかって転かしてしまった。男はすぐに謝ったのだけれど、侍は怒って無礼打ちじゃ、と刀を抜いて追いかけてきた。月代を剃って髷を結った本格的な格好だからといって、振る舞いまで侍に成り切っているのかと驚いた男は、大慌てでこの番所に逃げ込んだのだ、という。
それを聞いた職員のひとりが番所を出てあたりを見回すけれど、さきほど吉花たちが確認したのと変わりない風景が広がるばかり。首をかしげる職員たちに、本当に居たのだ、と飛脚の男は言いつのる。
興奮の鎮まらない飛脚の男に職員が手を焼いていた、そのとき。
チリーン。
突然、響いた鈴の音。番所を覗く吉花の背後から聞こえたその音に、その場にいる全ての人がまくし立てていた飛脚の男までが目を向ける。
そこにいたのは、墨色の着物をまとい頭に笠をかぶったひとりの大柄な僧侶。先ほどの音は、僧侶の右手にある大振りな鈴が鳴ったのだろう。
居合わせた全員の視線を集めて、僧侶は静かに口を開く。
「何か、お困りかな」
がっしりとした体つきに似合わず穏やかなその声に、いくぶん落ち着きを取り戻した飛脚の男が騒ぎの内容を説明する。繰り返して説明したおかげか、先ほどよりもずいぶんとわかりやすくまとまった話を聞いて、僧侶は頷いた。
「それはさぞかし驚かれたことであろう。怪我をされなかったことが何よりの幸い。見当たらぬ侍はひとまず置いておくとして、追われた他に害はありませんかな」
僧侶の問いに自身の体を叩いて改めた飛脚の男が、はたと動きを止めて急に大きな声を出す。
「無くなってる!」
懐に手を入れて言う飛脚の男の姿に、一同は財布を無くしたのだと察した。それならば相応の対応をせねば、と番所の職員も表情を引き締める。
「俺の朝めしのお稲荷さんが、無くなってる!」
続いた飛脚の男の言葉で、その場の緊張感は一気に瓦解した。なんだ飯かよ、と脱力する職員たちとは反対に、僧侶は難しい顔をして顎をひと撫でする。
「かつらではなく月代まで剃った侍に、無くなったいなり寿司。ふうむ。これは、狐のしわざかもしれんなあ」