ちょっと、寄り道します
ここのところ吉花の生活は、仕事先である小料理屋と長屋の自室の往復ばかり。ときおり、井戸端で長屋の大家である田谷とひと言ふた言交わす程度で、それ以外はひとりきり。朝食を食べに来る辰姫もおらず、立ち話をする葉月もいない。火の消えたような寂しいひとり暮らしに、水内の眼鏡談義さえ恋しく思うようになっていた。
それというのも、吉花が提案したのっぺらぼうの観光資源化を進めるため、葉月たちが方々に出かけているからである。
吉花を除く長屋の面々は、この江戸風の町に起きた妖怪騒ぎを解決するために集められた人たちなのだから、そのために奔走するのは当然だ。吉花もそれはわかっていたけれど、やはりひとりで食べるごはんは味けなく、寂しい。
長屋の障子戸越しに表通りの喧騒が聞こえてくるけれど、それも吉花の心を浮き立たせはしない。遠くに聞こえる賑やかな声は、吉花の部屋の静けさを余計に際立たせるように感じてしまう。賑わう朝の通りに乗り出して、辰姫たちがそうしてくれたように干し魚などのおかずを買うのも億劫だった。
白飯と味噌汁でささっと朝食を済ませてしまうと、出勤時間まですることもない。着物などの洗濯は専門の洗い屋にお願いするし、手ぬぐいなどの簡単な洗い物は手早く済ませられるようになってきた。
部屋から出て井戸端に行ってみるけれど、誰もいない。田谷はまだ寝ているのだろうし、葉月たちは帰ってこないこともしばしばだ。
がっかりして退屈を持て余した吉花は、かなり早いけれども仕事に向かうことにした。前掛けなどを包んだ風呂敷包みを持って、長屋を後にする。とはいっても、あまりにも早すぎるから、いつもの通勤ルートではなく大いに寄り道をしようと決める。
思えば、吉花がこの町に越して来てしばらく経つけれど、通ったことがあるのは仕事場への道と湯屋への道くらいなものである。
改めて考えれば、自分自身に余裕がなかったのだな、と吉花は思う。現代日本社会に向かないと言われて逃げ出すようにこの町に来て、慣れない生活と慣れない仕事をなんとかこなす日々。きっと、辰姫たちと知り合わなければ自分が寂しく思っていることにも気がつかなかっただろう。そうして、仕事と部屋とを往復するばかりの味気ない毎日に疑問も抱かず、いつかくたびれ果ててこの町からさえも逃げ出していたかもしれない。
引っ越して来て数日で辰姫たちと出会えたのは幸運だったのだ。ひとりは寂しいのだと思わせてくれる人びとに会えたことは、きっととても得難いことだったのだと思う。
だから、そんな彼らとまた会えた日のための話題を探しに、吉花は寄り道をしに行こうと決めた。そう決めてから歩きだすと、なんだか草履も軽いような気がした。
店の表に並べられたのは、漢方薬だろうか。枯れ枝や木の皮を店先に並べ、干したきのこを吊るした店は薬種問屋。物珍しくて眺めていれば、店先の掃き掃除をしていた店員らしき人に声をかけられた。表向きは漢方薬ばかりを並べているけれど、町の住人用にドラッグストアで販売している風邪薬や痛み止めなども売っているから、と言う。有用な情報なので、葉月たちにも教えなければ、と吉花は心に留めておく。
履き物問屋にはずいぶんと大きな草履があった。全体的に少々お高めの値段であるから、きっと観光客用なのだろう。草履や下駄の鼻緒を好みの布にすげ替えてくれるサービスもあるようで、これは辰姫と行きたいと思う。
色々な店が並ぶ合間に、傘張り浪人なる店を見つける。これはきっと、時代劇好きの観光客に向けた店なのだろう。骨組みだけの和傘が並べられた土間、その奥にせんべい布団と作りかけの和傘が置かれている様は、いつかテレビで見た傘張り浪人の部屋にそっくりだ。土壁に穴が空いていたり、畳が擦り切れて妙にボロっちいあたり、よくできている。きっと、観光客が来る時間帯になれば、髷を結った強面の男性が傘を貼っていることだろう。
色々な店を眺めながら、焼き魚を売る振り売りや、ところてん売り、刃物研ぎなどが行き交う通りを歩いていく。ふと、通りを曲がっていく半衿売りを見つけて、吉花は後を追う。着物はなかなか買えないけれど、半衿ならば買いやすい。首元のちょっとしたおしゃれを楽しむのもいいかもしれない、と脇道に入ったところで、吉花は首をかしげた。
半衿売りがいない。どこかの家に呼ばれて入ったのだろうか。別の曲がり角を曲がっていったのだろうか。考えるけれど、見当たらないものは仕方がない。また今度、辰姫が落ち着いたら一緒に探そう。
そう考えて、大通りに引き返そうと振り向いた吉花は、ちょうど脇道に入ってきた人と出くわした。
「ごめんなさい、どうぞ」
「いえ、こちらこそ。すみません」
互いにぶつかりかけたことを謝って、道を譲り合う。吉花は男性が大荷物を持っているのを見て、お先にどうぞ、と言うけれど、男は腰が低く、いえいえそちらがお先に、と譲り返してくる。
相手の顔をちらりと見ると、自信が無さげな若い男性だ。吉花の経験上、こういう人との譲り合いは長くなる。だったらお先に、と横をすり抜けようとした時。
「あ、あの!」
呼び止められて振り向いた吉花を緊張した面持ちの男が見つめていた。