ゆきてかえりし物語<後編>
――私は動転していた。
お父様達の声も聞こえず、重力が地球の十万分の一しか無い小惑星イトカワだけど、身体をどこかぶつけたかもしれない。採取用の銃も垂直に当てる事は出来ずに、台地にこすっただけ。
――どうしよう。どうしたらいいんだろう。
『……ぶ……さ……。はやぶさ……! 聴こえたら、一度上昇するんだ。君の状態を調べる』
私は聴こえて来たお父様達の声に、とにかくイトカワから飛び上がった。とりあえず状態のチェックをしている間、バレエのターンの様にクルクルと回る。姿勢の制御と、太陽に羽を当てて身体にエネルギーを送る為だ。
分かった事は、私が降り方を失敗してしまったから採取用の銃が起動していない事。それと、そんな状態でも小惑星に着陸して離陸したのは【月】以外では私が初めてだということ。さっきまで沈んでいた気持ちが浮き上がる。クルクルと私は太陽の光と踊る。もしかしたら採取用の銃に、既に小惑星の【塵】が入っているかもしれない。でも、改めてきちんと着陸して、銃を発射して砂を取ろうと決まった。
『はやぶさ、次が本当にラストチャンスだ。地球へ帰る道のりを考えると今回しか無い』
私は高さ百キロメートル程まで上がっていた身体をじわじわと一キロメートルまで近付けていく。私が撮影した映像を元にお父様達が指示を出してくれてスムーズに降下。そして高さ七メートル。
『はやぶさここからは自分の判断で行くんだ。はやぶさの様に獲物を掴んで来るんだ』
私はまた独りになる。でも、今度は見守られているのが分かる。私は秒速十センチメートルというゆっくりとしたスピードで着地。採取用の銃を慎重に構え……発射スイッチを押す。そして、直ぐにまた浮き上がった。
「お父様! WCT(ミッション完遂)」
『WCT確認! 命令の実行を確認した! さぁ、はやぶさ! 帰還だ! 帰っておいで』
「はい!」
喜びの声が聞こえる中、私は小惑星イトカワを離れた。
イトカワから五キロメートル離れ、一旦停止。落ち着いて深呼吸。イトカワに着陸した時の事をお父様達に伝えようとした時だった。
――スラスターの噴射が上手くいってない。
太陽が当たっているはずの頭が、いきなり冷たくなってきた。どうして!?
『はやぶさ! 化学推進スラスターの燃料が漏れている!』
燃料が漏れて蒸発しながら私の熱を奪う。宇宙空間では、太陽が当たる面はプラス百度。当たらない面はマイナス百度位と極端に温度が変わる。私の身体に納められている観測用や他の機械達が壊れない様にヒーターで温度を調節しているの。
『スラスターの燃料の元栓を閉めるんだ!』
「は……はい!」
漏れは治まったけれど、状況は悪くなった。私の姿勢を維持する『軸』は三基の内、二基が故障。スラスターで姿勢を維持していたのだけど、これじゃスラスターが使えない。とにかく解決の為にも太陽に羽を向けてぐるぐると回って時間を稼ぐ。身体も温まるし、私が一番安定する姿勢。この状態は何もしなくても大丈夫。
そう思ったら、スラスターが完全に故障。いくら命令を出しても動かない。そんな状態で一度音が消える。
「お父様! お父様!?」
燃料が漏れた時の反動は、私が思っていた以上にまずかったみたい。音が戻った時に、お父様が調べてくれた結果を伝えてくれたんだけど……
燃料漏れで姿勢がかなり崩れている。身体が冷え過ぎて機器が壊れる程に冷えた。バッテリーは放電。機器多数が一度停止。
『こちらからスラスターを起動命令を出してみたがどうだ?』
「ほんの少しの推力しか出ません」
さらに重なる悪夢。回転軸がずれて、太陽から逸れてきている。私も気付かない内に燃料漏れがまだ続いてる。漏れた燃料の噴出で回転速度も落ち始めてる。このまま回転が遅くなれば私はバランスを崩してしまい、太陽に羽が当たらなくなればエネルギーは無くなる。
『はやぶさ! イオンエンジンの燃料であるキセノンをそのまま放出するんだ。それで姿勢を制御するんだ』
まるでガソリンをそのまま吐き出すみたいに私は燃料のキセノンを吹き出す。
「でも、こんなに使ってしまって大丈夫なんですか」
『君が生まれた時、予想外に軽量化出来たんだよ。その分、浮いた重量にキセノンをありったけ積めてある。だから大丈夫だ』
ダイエット大事。私はお父様達の機転に感謝した。
ようやく太陽にしっかりと羽を向け、頭に付いている【中感度のアンテナ】が地球に向き、沢山のデータがしっかりと送れる様になったの。
そこで分かってしまった事実。【採取用の銃がきちんと発射されていなかった】
プログラムの連携ミスで、発射がされていなかった……。
『一度目の着陸の時に、銃にサンプルが入った可能性がある。だから……は……ぶ……』
ショックで私の意識がすうっと暗くなる。同時に漏れ続けていた燃料の残りが一気に蒸発。私の姿勢の限界を越えた。【歳差】(すり鉢でお味噌を擦る様な動き。すりこぎ運動とも言う)を起こした私は、自分でもどうなっているのか分からなくなり、お父様の声が遠くに聴こえた気がして……意識が……無くなった。
***********
誰もいない宇宙の暗闇で。何も聞こえない、たった独りで私は消えていこうとしていた。
私はお父様達が、お母様達が一生懸命に建てた高い塔の上にいた。そこから私は小惑星イトカワを見ていた。私はここまでだったのかな……。
『……やぶさ……』
微かな声が……聴こえた……気が……
『……まだ……塔の建設は終わってないだろう……』
まだ……? もう眠っていいんじゃないの?
『はやぶさ。君が地球に帰る事がゴールだ。起きるんだ、はやぶさ!』
***********
夢……? だったの? 私の耳には地球からの声が聞こえる。だけど、ちゃんと返事が出来ない……。私、どうなってるの?
『君の体温は十五度以上かい?』
「ピッ(はい)」
『じゃあ、三十度以上かい?』
「ピッ(いいえ)」
お互いに何十分もかけて、こんな感じの僅かずつの情報のやり取りを続けて、状況が分かり、少しずつ指示の通りにキセノンを噴射し、太陽に少しずつ身体を向けて、一ヶ月以上かけて私はやっと【低感度のアンテナ】から【中感度のアンテナ】が使える様になって完全に状態が分かった。
・化学推進スラスター十二基全滅。
・バッテリー十一個中、四個が完全に放電。使用不可。
・回転軸三基中一基のみ可動。
・イオンエンジン三基無事、一基は打上直後から不調。燃料のキセノンは無事。
――満身創痍。
だけど、まだ希望はある。
まず、イオンエンジンに負担をかけない為に出発予定を遅らせる。太陽から外れると地球と通信が出来ないからそれを維持。そして出発前に採取用の銃のサンプル用のカプセルの蓋をきちんと閉める。ただ、締めるのに一気にかなりの電気を使わなきゃいけない。まだ使えるバッテリー七個を一ヶ月かけて充電。ようやく採取用の銃の蓋を閉めて、カプセルを私は胸に抱える。何があっても【これだけは】持ち帰る。最優先の目標【サンプルリターン】の為に。
出発用意も整い、イオンエンジンを起動してしばらく進む。でも、一つが完全に動かなくなった。無事な残り二つのエンジンも推力が落ちてきてる。
結局調子が悪い一つをなんとか使いながら加速。ゆっくりと太陽を周りながら地球への帰り道を進み始めた。
自分の場所を確認して、イオンエンジンを停止。きちんと軌道を確認して休ませていた方のイオンエンジンを再点火。ここからは地球へ戻る為の軌道に入る。無事に大きな道に入った感じ。私はエンジンを止めている間は羽を太陽に向けながらほぼ眠っていた。実は太陽に身体を向け続ける為に、太陽の光の力も使った。光にも物を押す力があるの。物凄く弱いけれど。
そして遂に、イオンエンジンが三基故障。でも、どうにか無事な部分を組み合わせて起動する事が出来て、私はまた加速する事が出来た。お父様曰く、『念の為に回路をしこんでおいた』だって。お父様達、凄すぎる。
力が弱り続けるイオンエンジンの連続運転を停止。後はほんの少しだけ軌道を修正する時に使うだけ。
その後の五回の軌道修正も成功。私は……私は地球への道に綺麗に入った。
***********
地球と月が見えた! 進んでいく私の先に、故郷の星が見える。と、お父様達から通信が。
『はやぶさ。七歳の誕生日おめでとう』
私が地球から離れて七年……。ケーキも用意してくれたお父様お母様に私は涙声しか伝えられなかった。帰還カウントダウンのHPも出来て、沢山の人が私を待ってくれている。
2010年6月13日。
私は前の日から姿勢を崩さない様に注意しながら『軸』の回転を上げる。キセノンもたっぷりと噴射。この胸に抱えたカプセルを絶対に正しい方向へと放す為に。ずっと壊れない様に大事に使っていた『軸』も、もう無理にでも使う。
――最期だから
サンプルを回収したはずのカプセルと分離したら、私は、地球に、大気圏にそのまま突入する。壊れていなければ、新しい小惑星にも行けたんだけど、身体はもう限界だった。
ただ、このサンプルを地球へリターン。それが最期のミッション。
午後七時五十一分。地球から約七万キロメートル。私はカプセルを胸から真っ直ぐに飛ばした。ドリルみたいに回転しながら飛んだカプセルは後三時間後には地球へ。
「……終わった」
沢山のアクシデントの中、私は地球へと帰れた。後は……。
『はやぶさ。全てのミッション完了。満点だ。そして最後のミッションだ』
え……。
『地球の写真を撮るんだ。君の為に。君だけの為に』
私の時間にしていいの……。時間は残り少ない。私は慌てて『軸』をめいいっぱい動かして、身体を制御する。必死に地球へとカメラを向ける。必死にシャッターを押して八枚。画質を補正する事も無く、最後にぎりぎり地球の姿を収めて送信。
――午後十時二分。通信断絶。
私を先導する様に進んでいたカプセルが光り始める。私の身体も光り始めた。身体は満月の倍ほどの光を放ち、そしてまだ残っていた燃料が爆発する。二回目の爆発があった時、私は地球に還った。
***********
私から別れたカプセルは、オーストラリアのとある部族の聖地に、予測地点の誤差五百メートルの範囲で着地。専用の飛行機をチャーターして、相模原のキャンパスへ。専用の施設の中で、慎重に開封され無事に小惑星のサンプルが入っているのが確認された。
私は隼。学名は【Falco peregrinus】。「外来の」、「放浪する」の意味の通り、過去と未来を繋ぐ旅路を終えて来た鳥。私はハヤブサ。
私が持ち帰ったサンプルは、地球の起源を探る研究に使われ、それを利用して未来を紡ぐ。ただいま……地球。私は、還った。
はやぶさの採点表
1.イオンエンジンに稼働開始(三台同時運転は世界初) 50点
2.イオンエンジンの千時間稼働 50点
3.地球スイングバイ成功 50点
4.自律航法に成功。イトカワとランデブー成功 50点
5.小惑星の科学観測成功 50点
6.微小重力下の小惑星への着陸、および離脱(月以外では世界初)。
小惑星のサンプル採取(月以外は世界初) 25点
7.カプセルが地球に帰還。大気圏に再突入して回収 125点
8.小惑星イトカワのサンプルを入手 100点
500点満点中、500点。
NASAは
「イオンエンジン稼働試験機」ディープスペース1
「彗星の塵を地球に持ち帰る」スターダスト
「小惑星の観測を行う」 ニア・シューメーカー
それぞれを単発で行った。
ハヤブサは一基でこの三つ同時に遂行。
「高い塔を建ててみなければ、新たな水平線は見えてこない」
「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎教授の言葉。