ゆきてかえりし物語<前編>
私は縮こまっていた全身を広げる。肩に装着した羽を大きく広げ、足に付けてある採取用の銃も伸ばす。さっきまでたたまれていた羽が、太陽の熱を受けて私の身体を暖める。そして、私は言葉を発した。
「こちらMUSES−C。宇宙空間にて無事に展開致しました」
すぐに安堵と喜びの声が返ってくる。
『MUSES−C、こちらでも君を確認した。そして、君はもうMUSES−Cではない』
え、と驚く私にお父様が続ける。
『今より君を型式では呼ばない。たった今から君はHAYABUSA。はやぶさだ。おめでとう、はやぶさ』
私は喜びに声が出ない。私は宇宙で改めて生まれた。
『帰ってくるまでがミッションだ』
そう、わたしの最大の目標は【行って帰る】事。それ以外にも沢山のミッションがあって、一つ成功する毎に加点されるのだ。
まず、私はイオンエンジンにスイッチを入れた。正常可動を確認。これは物凄く燃費が良い上に、化学エンジンよりも燃料が遥かに軽くていいの。しかも、四機積んであるこのエンジンの内、三機を同時に動かすのは世界初なんだって。
始めは動かしてもすぐに調子が悪くなって、中々上手く進めなかったんだ。でも、一ヶ月もしない内に、最適な方法のマニュアルが送られてきて、私は安定して使える様になったの。サポートは万全、常に見守られている。私の胸は太陽熱だけでは無い何かで温かくなる。
そして、目標の小惑星を目指す前に、次にやる事。私は地球の周りで、加速の為に少しずつ動き始めた。これは、しっかりと速度を得て小惑星まで向かう為に助走をつけているの。
約一年かけて私は地球の軌道から少しずつずれながら速度を上げて、地球に一番接近した時に接近通過。地球の引力に引っ張られる力を使って急加速。一度、手を引っ張ってもらって離す感じ。
その瞬間にまだ使っていなかったカメラで試し撮り。我ながら上手く撮れた地球の写真。そうして私はその上がり続けた速度も使って、一気に地球から離れて小惑星へと向かう軌道へ。
――ある意味、ここからが本当に宇宙への旅なのかもしれない。
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飛び続けて一年。まだ遠くに見えている目標の小惑星の撮影に成功。これで地球からの私の位置の誤差を修正出来る。
余りにも地球から遠いお陰で、ちょっとの誤差がとんでもないズレになるの。何せ直線距離にしたら地球を7500周する程の遥か彼方。私は丁寧に位置を確認して修正。ホッとした事で油断したのかもしれない。私の中の『軸』が一つ壊れた。
宇宙空間で身体の向きを変えたりするのは至難の業。私自身が回転して姿勢を制御しなくてもいいように、身体に設置してある『回転軸』。この三つの内の一つが壊れてしまった。でもまだ二つある。私は小まめに地球へと情報を送りながら小惑星へとじわじわ近付いていく。でも、一つの軸が壊れてしまった事でバランスを取るのが大変になってしまい、予定よりも遅れが出て来ちゃった。慌てて普段は二つだけ使ってるイオンエンジンを三機同時起動して、私は急いだ。
――小惑星イトカワ。地球から直線距離で3億2千万キロメートル。地球と太陽の距離のおよそ二倍。
私の旅の目的地であり、地球から24億キロメートル駆けて来たけど、まだすぐには着陸しない。かなり手前でイオンエンジンを切って、慣性で動きつつ残り20キロメートルの所でイトカワと同じ速度にする。これで私はこの小惑星に【浮いている】状態。ちょっと変な感じだけど、これで勝手に身体が離れていく事も無い。
会いたかった相手だから、本当にランデブー。ちょっと遅れちゃったけどお待たせ小惑星イトカワさん。
『おめでとうはやぶさ。これで行きの旅は終わりだ。まずはしっかりと観測して、着地地点を割り出そう』
もう既に、地球から遠く離れ、一番感度のいいアンテナでも電波が届くまでに30分以上かかる。私は慎重に観測しデータを送り、地球のお父様お母様達と相談する。どうやら、元々地球から観測した時は『じゃがいも』に見えていたイトカワ。しっかりと観測したら『ラッコ』みたいに、寝転んだ状態から首を少し上げている様な感じだった。早速、誰かが私の送った写真に絵を書いてラッコにしたみたい。
そのラッコの手の部分。少し顔を上げてくびれた部分が一番安全そうだという事で、ここを着陸地点に決めて私は動き始めた。なんとこの地点には私の名前が付けられて【ミューゼス シー】と言うんだって。
さてさて、20キロメートル地点での観測を終えて7キロメートル地点へ。ここから着陸の練習。何せ怪我しても誰も助けに来れないから、とにかく慎重に。でも、私は緊張し過ぎたみたい。また回転軸が一つ壊れてしまった。残りは一つだけ。しかも高感度のアンテナを地球に向けられなくなっちゃった。無理やり最後の軸を動かしてイオンでは無く、化学のエンジン(こっちは火薬みたいな感じね)を少しずつ吹かす。どうにか中感度のアンテナを地球へ向ける事が出来た。でも、送れる情報がぐっと減ってしまった。不安で胸が苦しい。地球に、お父様達に私の状況を伝えるのが遅くなってしまう。
そしてもう一つの不安。イトカワに接近した時、私は『私の判断』で着陸しないといけない。細かい状況を伝えるにも往復30分の電波の遅れが壁になる。私は深呼吸すると、ゆっくりと着陸用意。レーザーで、でこぼこや岩をしっかりと確認。私が降りて大丈夫なまっすぐな場所はないか。採取用の銃がきちんと垂直に小惑星の表面に接触出来る場所は無いか……。
私は二回目の練習で、ついにターゲットマーカーとなるボールをイトカワへ降下させた。これは光を当てると反射して目印になるの。ビーズのお手玉みたいなのだって。確かに跳ねないで綺麗に着地してくれた。そしてそれを撮影して地球に写真を送った時に初めて気付いた。
「私の影が写ってる!」
私は自分にカメラを向けられない。だからこの時初めて、お父様お母様達に、私の無事を映像で伝えられたの。
そして三回目。今度はミネルバという凄く小さなロボットをイトカワに放す。これで私以上に色々観察してくれる……はずだったんだけど、一旦浮き上がった時に切り離しプログラムが作動。ミネルバは……私の羽根――太陽パネルを写した後に、ゆっくりと離れて行ってしまったの。ミネルバは世界最小の人工衛星としてイトカワの周りに残る事になっちゃた。
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さぁ、ようやく本番へ。毎秒三センチという物凄いゆっくりの速度で私はイトカワへと向かう。そして、お手玉マーカーを射出! 今度のはなんと88万人の名前が刻まれたプレート付き。いつかまた誰かがここに来たらそれを見つける事が出来るよ。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと降下して行き……私は小惑星のサンプルを取る為に、採集用の銃を構え……あ、視界の端で何か光った。
――それに気を取られて、私は……こけた。二回バウンドして三回目に斜めにイトカワにドサリ。
さらに間の悪い事に、その時はちょうど、お父様達のいる日本から電波が届かなくなり、アメリカの人達のアンテナに切り替わるタイミング。
――私は宇宙の彼方で、独りになった。