序
意識が戻ったとき、体の自由がきかなかった。頭は冴えているのに口からは言葉が出ない。視界も定まらず、うすぼんやりとした明かるさを感じるだけ。耳に届くのは、竹の葉を揺らしたような、落ち葉を集めたようなガサガサという音だけ。腕も足も力が入らず、少し手を伸ばすと何かに阻まれて、思うように動けない。
彼はあせった。こんな体では、何もできない。やらねばならないことがあるのに、何をすることもできない。悔しくて悔しくて、彼はもがいた。必死にもがいた。うすぼんやりとした視界が急に明るくなり、かといって何も見る事はできず、やはり体も自由に動かないままだった。それが悔しくて、彼は泣いた。泣いて、叫んだ。そうしているうちに体力を使い果たし、彼は眠った。
次に意識が戻ったとき、彼は暖かなものに包まれていると感じた。しかし、それが何なのかは、わからなかった。思い通りに動かない体やままならない視界や聴覚はそのままだが、その暖かさに彼は安らぎを感じた。甘い匂いが鼻先をくすぐり、腹が減ったという本能のまま、口元に付けられたものに吸い付いた。胃に流れ込むものの味はわからなかったが、腹がいっぱいになるまで吸い続けた。そしてまた疲れて眠った。
彼は、幾日も同じことを繰り返した。そんなある日、唯一はっきりとした聴覚から、甘ったるい、しかしとても安心する声が日々彼にかけられ続けていることに気付いた。毎日届く声に耳を傾け、包まれるぬくもりに身を任せていると、次に視界が鮮明になってきた。その視界で、薄々と気付いていたことに、彼は確信を持った。柔らかく微笑む女の顔と、そこから聞こえる声。精一杯力を込めて上げた己の腕は小さくふくふくとしていて、手はまるでもみじのようだ。
(ああ、やはり、そうか)
納得した彼は、目の前の女に微笑んだ。女も嬉しそうに笑った。
「竜一ちゃん」
これは母だ、と彼は感じた。彼の母では無い。けれども、間違いなく、彼の母だった。
母の声は、彼に優しく染み込んでいく。柔らかく、侵食するように、毎日、毎日。その度に陽炎のように揺らめく、とおい、とおい、記憶。
(私は、あのとき白帝城で死んだのか。そしてまた、生まれてきたのか)
彼は高宮竜一として、この世に生を受けた。生を受ける前の名は、劉備。字は玄徳。今よりもはるか昔の中国、三国時代のひとつ、蜀を作った英雄だった。