9話
「ユーリ、起きてください」
声が耳元で響いた。柔らかい声。近い。
目を開けると、ルナの顔があった。至近距離。紫の瞳に俺の顔が映っている。
心臓がうるさい。毎朝これだ。慣れない。
「……近い」
「起こしに来ました。朝ごはん、作りましたよ」
「作った?」
「はい。女将さんに教えてもらって」
ルナが嬉しそうにベッドから飛び降りた。テーブルの上に皿が並んでいる。パン、目玉焼き、薄切りの干し肉を焼いたもの。スープ。
いつの間に。
「ルナ、お前いつ起きた」
「ユーリが寝てる間です。そーっと抜け出しました」
「距離制限は?」
「厨房はこの部屋の真下なので、大丈夫でした。ちょっとだけ紋章がぴりっとしましたけど」
ギリギリだったのか。
椅子に座った。木のフォークで目玉焼きを突く。黄身が流れ出た。焼き加減は悪くない。
一口食べた。
塩が少し多い。だが、食えないほどではない。温かい。
「……美味いぞ」
「本当ですか!?」
ルナが目を輝かせた。体ごと跳ねている。
「ユーリが美味いって言ってくれた! 初めてです!」
「そんなに驚くことか」
「ユーリは普段『悪くない』しか言わないですもん。『美味い』は初めてです」
そうだったか。確かに、味の感想をはっきり言うのは得意ではない。
「これからも毎朝作ります」
「無理すんな」
「無理じゃないです。ユーリのためですから」
ルナが向かいの椅子に座って、自分もパンを齧り始めた。嬉しそうに足をぶらぶらさせている。椅子が高くて足が届かないのだ。
この光景が——日常になった。
約束の夜から、ルナが変わった。
いや、変わったというのは語弊がある。元からこうだったのかもしれない。ただ、遠慮がなくなった。
朝は俺より先に起きて朝食を作る。昼は依頼に付いてきて、月の魔法で援護する。夕方は宿に戻って夕飯を作る。夜はベッドで俺の腕にしがみついて寝る。
隙間がない。文字通り。
「ユーリ、今日のスープは豆を入れてみました」
「おう」
「味見してください」
木の匙を差し出される。口を開けるしかない。
豆のスープ。ちゃんと煮えている。
「悪くない」
「また『悪くない』だ」
「俺の中では褒めてる方だ」
「もっと嬉しそうな顔してほしいです」
嬉しそうな顔ってどんな顔だ。
ルナが匙を置いて、俺の隣に座り直した。肩が触れる距離。
「ユーリ」
「何だ」
「ボクの料理、もっと上手になりますから。ユーリが『美味い』って言ってくれるように」
「今でも十分食えてるぞ」
「『食える』じゃなくて『美味い』がいいんです」
こだわるな。だが、その目が真剣なので笑えなかった。
ルナの料理は確かに日に日に良くなっていた。女将に教わるだけでなく、市場で食材を選ぶコツも覚え始めている。銀貨を握り締めて肉屋と交渉するルナの姿は、三百年の精霊には見えなかった。
普通の、一生懸命な子供に見えた。
男の子、だが。
ある夜のこと。
ルナが珍しく、ベッドの端ではなく俺の真横に寝た。いつもより近い。
背中が触れている。小さな背中だ。
「ユーリ」
「何だ」
「ユーリは、ボクのこと、どう思ってますか」
唐突な質問だった。
「どう、って——」
「従者? 家族? それとも……」
ルナが体を反転させた。暗がりの中で紫の瞳がこちらを見ている。
「ボク、ユーリにとって何ですか」
答えに詰まった。
従者——契約上はそうだ。家族——そこまで言えるか分からない。だが、ルナは俺の生活に不可欠な存在になりつつある。
料理を作ってくれる。戦いで背中を守ってくれる。朝起こしてくれる。夜、隣で寝ている。
それは何だ。
「……分からねえよ。名前を付けるのは苦手だ」
「じゃあ、名前はいいです」
ルナが俺の手を取った。暗闇の中で、小さな指が絡みつく。
「ボクは——ユーリのことが好きです。契約とか関係なく。ユーリという人が好きです」
心臓がうるさい。
「男のボクが、男のユーリを好きって言うの、変ですか」
「……知らねえよ」
「変でもいいです。ボクはユーリが好き。それだけは変わりません」
ルナが俺の手を頬に当てた。柔らかい肌。温かい。
「おやすみなさい、ユーリ」
目を閉じた。俺の手を頬に当てたまま。
しばらくして、呼吸が穏やかになった。眠ったらしい。
俺は暗い天井を見ていた。
好きだと言われた。男に。精霊に。見た目は少女の、中身は少年の、三百年の孤独を抱えた存在に。
手のひらに、ルナの頬の温度が残っている。
面倒くせえ。
でも、手を引っ込めなかった。
朝まで。
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