8話
その夜、月が出なかった。
新月だ。窓の外は雲もなく、星だけが散っている。
ルナが妙に静かだった。
普段は夕飯の間もよく喋る。今日のスープがどうだ、明日はパンを焼きたいだ、ユーリの服が汚れてるだ——そういう、どうでもいい話を延々と。
今夜は黙っている。
部屋の窓辺に座り、外を見ている。銀色の髪が暗がりの中で微かに揺れているが、いつもの淡い発光がない。
「ルナ」
「……はい」
「体調悪いのか」
「新月の夜は、少し力が弱くなるんです」
椅子の上で膝を抱えた。体を小さく丸めている。
「月の精霊だから、月が出ない夜は——ちょっと心細い」
心細い。ルナがそんな言葉を使うのは珍しかった。
ベッドの端に座った。ルナとの距離は二歩ほど。
「話があるなら聞く」
「……何のことですか」
「さっきの。前の契約者のこと」
ルナの肩が僅かに跳ねた。
「昼に少し言ったろ。封印された、って。もし話せるなら、聞いておきたい」
「なぜ?」
「お前のことを知っておきたいからだ。一緒に暮らすなら」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。だが撤回はしない。
ルナがしばらく黙った。窓の外の暗い空を見ている。
「……エルドラン、という人でした」
名前が出た。
「魔法師です。すごく優秀な人で——ボクと永続契約を結びました。ボクの力を使って、たくさんのことを成し遂げた人です」
「永続契約? 古代契約じゃなく?」
「あの頃はまだ、古代契約は普通の契約の一種として存在していました。エルドランは通常の永続契約で——でも、ボクの力を引き出す方法を研究していた」
ルナの声が少し硬くなった。
「最初は優しかったんです。ボクに名前をくれた。ルナ、って。月の精霊だから」
「名前をくれた?」
「精霊には元々名前がないんです。契約者がつけてくれるものなの。ボクの名前は、エルドランがくれました」
ルナが膝を抱える腕に力を込めた。
「一緒に旅をしました。色んな場所に行って、色んなものを見て。ボク、すごく——幸せだった」
過去形。
「でも、エルドランの目的はボクの力だけでした」
ルナの声が落ちた。
「ボクの魔力を研究して、自分のものにしようとしていた。ボクが気づいた時には、もう遅かった」
「何をされた」
「封印の術式を組まれました。月のない夜に——新月の夜に。ボクが一番弱い時に」
ルナの手が震えている。
「『もう用は済んだ』って言われました。それだけ。それだけ言って、封印して、去っていった」
静かな部屋に、ルナの呼吸だけが聞こえた。
「三百年。暗い中で、ずっと意識がありました。眠れたらよかったのに、眠れなかった。何も見えない、何も聞こえない、何も触れない——でも、考えることだけはできた」
ルナが顔を上げた。紫の瞳が暗闇の中で光っていなかった。新月だから。ただの、大きな瞳だった。
「三百年、考えていたのは一つだけです」
「何だ」
「次こそは離さない、って」
ルナが俺を見た。
「次に来てくれた人は、絶対に離さない。どんな手を使っても。ボクから離れていかないようにする。だから——」
ルナが窓辺から降りて、俺の前に立った。
「ユーリ。ボクは、ユーリを離しません」
宣言だった。
恐怖も、懇願も、甘えも含まない。純粋な決意。
「ボクが怖いですか」
「怖くねえよ」
嘘ではなかった。怖いのではない。
ただ——胸が痛かった。
三百年独りで、暗闇の中で、「次は離さない」とだけ考え続けた精霊。
歪んでいるのかもしれない。普通の感情ではないのかもしれない。
だが、それを歪みだと言える奴は——三百年、暗闇に閉じ込められてから言え。
「ルナ」
「はい」
「俺も言う。お前を捨てない。封印しない。置いていかない」
ルナの目が見開かれた。
「昼にも言ったが、もう一回言っておく。何回でも言う。お前が安心するまで」
ルナの唇が震えた。
「——ユーリ」
「何だ」
ルナが俺の胸に飛び込んできた。小さな体が、しがみつくように俺を抱きしめた。
「ありがとう」
「礼を言うことじゃないだろ」
「ありがとう。ありがとう、ユーリ」
繰り返し言っている。声が震えている。
俺はルナの頭に手を置いた。銀色の髪は絹みたいに滑らかで、指の間を滑っていく。
撫でている。
俺は——この子の頭を撫でている。
「……柔らかいな、お前の髪」
「えへへ」
鼻を啜りながら笑っている。泣き笑い。
ベッドに横になった。ルナが隣に潜り込んできて、俺の腕を抱きしめた。いつもより近い。体温がじかに伝わってくる。
「ユーリ」
「何だ」
「今日の夜は、月がないから暗いです」
「ああ」
「でも、ユーリがいるから怖くない」
小さな体がぴったりとくっついている。呼吸が穏やかになっていく。
ルナが眠った。
俺は天井を見ていた。
左手の甲の紋章が、新月の夜でも微かに光っている。
独りが楽だと思っていた。六年間、誰とも組まず、誰にも踏み込ませず、それが一番だと。
今、腕の中に誰かがいる。
離さないと言った精霊の少年が、俺の腕を抱いて眠っている。
面倒くさくて、甘えん坊で、時々目が怖くて、でも——温かい。
独りが楽だなんて、嘘だったのかもしれない。
最初から。




