5話
ルナに服を買ってやった日から、三日が経っていた。
白い長袖のシャツと、膝丈の紺のズボン。革のサンダル。南通りの服屋のおかみが「お嬢ちゃんにはこの色が映えるわね」と言って、ルナが「男の子です」と訂正して、おかみが三秒ほど固まった一幕は記憶から消したい。
ルナは新しい服を気に入ったらしく、毎朝丁寧に着替えている。鏡の前でシャツの襟を直している姿は、普通の子供みたいだった。精霊だということを忘れそうになる。
問題は依頼だ。
ルナと離れられない以上、今まで通りの魔物狩りは難しい。足手まといを連れて森に入るのは自殺行為——のはずだった。
「ユーリ、依頼ですか? ボクも行きます」
「駄目だ。危ない」
「ボク、強いですよ」
「お前が?」
ルナがにっこり笑った。何の根拠もない自信に見えた。
だが、選択肢がない。距離制限がある。ルナを宿に置いて依頼に出ることはできない。
「……死ぬなよ」
「死にません。ユーリのためですもん」
なぜ自分のためではなくて俺のためなのか。
街の東、丘陵地帯の森の手前。依頼は角牙猪の討伐だった。
角牙猪は中型の魔物で、頭部に鋭い角を持つ。突進力がある。肉は食えるので、討伐後の処理も楽だ。銅級向けの依頼だが、数が増えたので銀級にも回っている。
森の手前で足跡を確認する。新しい。近い。
「ルナ、俺の後ろにいろ。離れるな」
「はい」
素直に頷いた。
森に入る。木々は黒樹の森ほど密ではない。光が差し込み、下草が茂っている。角牙猪は下草の中に潜む。
足を止めた。
前方、茂みの奥。何かがこちらを見ている。低い鼻息が聞こえた。
剣を抜いた。
茂みが爆ぜた。
角牙猪が飛び出してくる。体長は俺の腰ほど。黒い毛皮に覆われた体で、額の角が鈍く光っている。
速い。正面から突っ込んでくる。
横に跳んだ。角が脇腹を掠める——ぎりぎり躱した。振り向きざまに剣を振る。が、猪は既に方向転換していた。
二匹目が左から来た。
見えていた。身をひねって角を避け、通り過ぎる胴体に剣を叩き込む。手応え。血飛沫が飛んだ。
だが倒れない。角牙猪の皮は厚い。
一匹目が再び突進してくる。二匹目も体勢を立て直した。挟まれる形になった。
「——っ」
同時に来る。正面と左。どちらかは避けられるが、両方は——
その瞬間、視界が白く染まった。
月光。
晴れた昼間の森の中に、月の光が降り注いだ。
一匹目の角牙猪が光の柱に呑まれた。白い光が猪の体を包み、爆ぜた。衝撃波が土と枯葉を巻き上げる。
猪は三歩ほど吹き飛ばされて、横倒しになった。動かない。
振り向いた。
ルナが右手を伸ばしていた。掌から淡い白光が放たれている。紫の瞳が冷たく、鋭い。
さっきまでの甘えん坊の面影はなかった。
「もう一匹」
ルナが短く言った。声のトーンが違う。低い。
二匹目の角牙猪が怯えたように後退った。だが遅い。ルナの左手から二つ目の光が射出された。
白い軌跡が猪の胴体を貫いた。猪は声も上げずに倒れた。
静寂が戻った。
俺は立ったまま、しばらく動けなかった。
「……何だ、今の」
「月の魔法です」
ルナがいつもの笑顔に戻った。切り替えが早すぎて、今の冷たい表情が幻だったのかと思うくらいだ。
「精霊は、自分の属性の魔法を使えるんです。ボクは月の精霊だから、月光を操れます」
「昼間なのに月の光が出たぞ」
「月は昼間も空にいますよ。見えないだけで」
なるほど。見えないものを引き出すのか。
「……強いな、お前」
「ユーリを守るためなら、もっと強くなります」
にこっと笑った。可愛い顔だ。さっき魔物を一撃で吹き飛ばした同一人物とは思えない。
角牙猪の死体を確認する。一匹目は光の衝撃で内臓が破裂していた。二匹目は胴体に穴が開いている。
精霊の魔法というやつは、えげつない。
「これ、毎回使えるのか」
「使えますけど、魔力を消費します。魔力はユーリの生命力から供給されるので——」
「俺の体力を使うのか」
「少しだけです。今のくらいなら、ちょっと疲れる程度です」
確かに、少し体がだるい気がする。
「大きな魔法を使うと、もっと消耗しますけど」
「限界は?」
「使いすぎるとユーリが倒れます」
「……教えてくれよ、先に」
「ごめんなさい」
全然悪いと思ってない顔で謝られた。
角牙猪の角を削り取り、素材として回収する。肉も一部切り分けた。ルナは血の匂いを気にする様子もなく、俺の作業を隣で眺めていた。
「ユーリ、剣使うの上手ですね」
「六年やってるからな」
「六年……ずっと独りで?」
手が止まった。
「ああ」
「その前は?」
「……仲間がいた」
それだけ言った。ルナは何も聞き返さなかった。
帰り道、夕日が森の木々の隙間から差し込んでいた。オレンジの光がルナの銀髪を染める。
ルナが俺の隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「ボクも、前は独りじゃなかったです」
足は止めなかった。歩きながら聞いた。
「前の契約者のことか」
「……はい」
ルナの声が小さくなった。
「その人は、ボクを——」
言いかけて、口を閉じた。
それから、無理に笑った。
「やめます。今は楽しい話がいいです」
「別に楽しい話なんかないぞ」
「ユーリがいるだけで楽しいです」
返す言葉がなかった。
宿に戻ると、女将が夕飯を出してくれた。追加料金を払っているからか、ルナの分もある。
ルナがスープを飲みながら、嬉しそうに笑った。
「ユーリ」
「何だ」
「ボク、ユーリのためなら何でもしますよ」
真っ直ぐな目で言われた。
何でも。
精霊の少年が言う「何でも」が、どこまでの範囲を含むのか——考えないことにした。
「飯食え」
「はい」
ルナが笑った。
いい笑顔だった。
だが、さっきの戦闘中の冷たい目が頭の隅に残っている。あの目と、この笑顔が、同じ顔に載っている。
スープを飲んだ。少し冷めていた。




