2話
暗い。
松明の炎が壁を舐めるように揺れる。石の隙間から吹き込む風のせいだ。冷たい空気が首筋を撫でて、産毛が逆立った。
錆と苔と、もうひとつ——甘い、花のような匂い。こんな場所にそぐわない香りだった。
神殿の内部は思ったより広かった。天井は高く、崩れた柱の残骸が通路を塞いでいる。壁面には何かの彫刻が施されていたらしいが、苔と蔦に覆われてほとんど判別できない。
足元を確認しながら進む。床石が割れている箇所が多い。踏み抜いたら下に何があるか分からない。
奥へ向かうにつれて、空気が変わった。
重い。肺に纏わりつくような圧がある。魔物の巣にいる時の感覚とも違う。もっと古い、もっと根の深い何かが、この場所に染みついている。
松明の炎が小さくなった。風のせいじゃない。空気が淀んでいるのか、それとも——。
足を止めた。
通路の先に、広い空間が開けている。
円形の広間だった。直径は十歩ほど。天井の一部が崩れていて、そこから細い光が差し込んでいる。
光の柱が、広間の中央を照らしていた。
そこに——いた。
祭壇のようなものの上に、人が横たわっている。
銀色の髪。長い。腰まで流れて、祭壇の端から垂れている。白い肌は磁器のように滑らかで、閉じた瞼の上に長い睫毛が影を落としていた。
小さい。子供だ。
少女——に見えた。
薄い衣を纏っている。古い時代の装束に見えるが、不思議なことに劣化していない。まるで昨日縫われたみたいだ。
息をしていない。
死体か、と思った。だが死体にしては——綺麗すぎる。腐敗もない。虫も寄っていない。石の祭壇の上で、眠っているようにしか見えなかった。
松明を掲げて近づく。
足元に何かが刻まれていた。床の石に、複雑な紋様が走っている。円を描き、文字のようなものが並んでいる。
読めない。だが見たことはある。
契約紋だ。
魔法師が精霊と契約を結ぶ時に使う紋様。ただし、こんな複雑なものは図鑑でも見たことがない。
嫌な予感がした。
後退りしようとした、その瞬間——足元の紋様が光った。
淡い青白い光が、円形の床を走る。紋様の一筆一筆が発光し、広間全体が蒼い光に包まれた。
何だ。
動けない。足が床に縫い付けられたように動かない。
松明が手から落ちた。だが暗くならなかった。紋様の光が松明の代わりに広間を照らしている。
祭壇の上の少女が——動いた。
指が震える。次に、唇が微かに開いた。
呼吸が戻った。胸が小さく上下し始める。
瞼が開いた。
紫水晶の瞳。
暗い神殿の中で、その瞳だけが異質に輝いていた。焦点が合うまで数秒かかった。天井を見て、光を見て、それから——俺を見た。
目が合った。
少女が微笑んだ。
細い指が伸びてきた。俺の方へ。
「——やっと」
声が聞こえた。掠れていて、小さい。だが確かに言葉だった。
「やっと、来てくれた」
足元の紋様がさらに強く輝いた。光が渦を巻き、祭壇と俺を繋ぐように床を走る。
左手が熱い。
見下ろした。左手の甲に、紋様と同じ蒼い光が浮かび上がっている。火傷痕の上に刻み込まれるように、円形の紋章が皮膚に焼きついていく。
痛い。熱い。声が出なかった。
「契約——」
少女が起き上がった。祭壇の上に座り、こちらを見ている。涙が頬を伝っていた。
「ボクの——新しいご主人様」
光が弾けた。
意識が遠のく。膝から力が抜けた。
最後に見えたのは、銀色の髪の少女がこちらに手を伸ばしている姿だった。
泣きながら、笑っていた。
目を開けた時、最初に感じたのは柔らかい感触だった。
頭の下に何かがある。石の床ではない。温かくて、柔らかい。
膝だ。
誰かの膝の上に頭を載せている。
跳ね起きた。
「あっ」
小さな声が上がった。
振り向く。
銀髪の少女が、祭壇の前の床に座っていた。さっきまで俺の頭を膝に載せていたらしい。俺が急に起きたせいで、少し驚いた顔をしている。
紫の瞳が俺を見上げていた。潤んでいる。
「……起きた。よかった」
安堵したような声。小さな手が胸の前で握られている。
俺は数秒、状況を整理しようとした。整理できなかった。
「——誰だ、お前」
「ルナです」
即答だった。
「ルナ。ボクの名前です。ご主人様の——ファミリアです」
「ファミリア」
「精霊の従者、です。ご主人様が契約を結んでくれたから、ボクはもう——」
ルナが立ち上がった。小さい。俺の胸くらいまでしか背がない。
にこっ、と笑った。
「ボクはご主人様のものです」
何を言っている。
左手を見た。甲に蒼い紋章が刻まれている。触れると微かに温かい。消える気配はなかった。
「……待て。俺は契約なんか結んだ覚えは——」
「古代契約は、踏み込んだ者と自動的に結ばれるんです」
ルナが小首を傾げた。長い銀髪がさらりと揺れる。
「この神殿に入れる人が来るのを、ずっと待っていました。ずっと、ずっと」
ルナの目が潤んだ。
「三百年くらい——かな。途中から数えるのをやめちゃったから、正確には分かりませんけど」
三百年。
頭が痛くなってきた。
「……勝手に契約が成立するって、解除はできないのか」
ルナの表情が変わった。
一瞬だけ。笑顔が消えて、何かもっと深い感情が紫の瞳に浮かんだ。恐怖に似たもの。
すぐに笑顔に戻った。早すぎて、見間違いかとも思ったが——見間違いではなかった。
「古代契約は解除できません」
声は穏やかだった。だがさっきより、ほんの少しだけ硬い。
「ご主人様とボクは、もう離れられないんです。物理的にも。あまり遠くに行くと、体が動かなくなります」
「……マジか」
「マジです」
真面目な顔で頷いている。
俺は額を押さえた。
金貨五枚の依頼を受けたはずが、三百年物の精霊を拾ってきてしまった。
面倒くせえ、なんて言葉じゃ足りない。
「とりあえず——」
立ち上がる。体は動く。特に異常はない。左手の紋章以外は。
「ここを出る。話はそれからだ」
ルナが嬉しそうに頷いた。
「はい、ご主人様」
ぱたぱたと駆け寄ってきて、俺の上着の裾を掴んだ。
小さな手だった。力は弱いのに、妙にしっかり握っている。
振り払う気にはならなかった。
なぜかは分からない。
廃神殿を出ると、森は夕暮れの色に染まっていた。木々の隙間から橙色の光が差し込んでいる。
ルナが俺の隣に立った。外の光を浴びて、銀色の髪が夕陽を反射して柔らかく光っている。
まじまじと見てしまった。
整った顔立ちだ。肌は白く、目は大きく、睫毛が長い。耳がわずかに尖っている。華奢な体つきで、古い装束が風に揺れている。
少女にしか見えない。
だが——何か引っかかった。
「ルナ」
「はい、ご主人様」
「お前、男か? 女か?」
ルナが目を瞬かせた。
それから、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「男の子、ですけど」
数秒、沈黙した。
「……は?」
「男の子です。精霊に性別はあまり関係ないんですけど、ボクは男の形を取っています」
俺の目は節穴か。
もう一度、ルナを見た。銀髪。紫の瞳。華奢な体。長い睫毛。どこからどう見ても——
「男」
「はい」
「……男か」
「はい。何か問題ありますか?」
にこにこしている。問題しかないだろう。
いや——問題があるかと言われると、別にないのだが。見た目の話であって、中身は変わらない。
だが脳の処理が追いつかない。
「……まあいい」
それしか言えなかった。
ルナがくすくす笑った。
「ユーリ様、面白い顔してます」
「うるせえ」
裾を掴む手の力が、少し強くなった気がした。
森を出るまでに、日が暮れるだろう。野営の準備をしなければならない。
金貨五枚の調査依頼は、予想外の収穫を連れてくることになった。
収穫と呼んでいいのか、厄介事と呼ぶべきなのかは、まだ分からない。
分かっていることは一つだけだ。
裾を掴む小さな手を、振り払う気になれなかったということ。




