12話
「ユーリ、体調どうですか」
「もう平気だ」
嘘ではない。三日寝たら体力は戻った。まだ少しだるいが、日常生活に支障はない。
ルナが安心したように微笑んだ。この三日間、ルナは俺のそばを一秒も離れなかった。文字通り。風呂も、着替えも、全部同じ部屋だ。距離制限があるから仕方ないが、それにしても密着しすぎだ。
とはいえ——慣れてしまった自分が怖い。
「今日、ギルドに顔出す。角鬼牛の報告もまだだったからな」
「はい、一緒に行きます」
当然のように言った。
レグナの通りを歩く。いつもの風景。だが、最近は一人で歩くことがなくなった。常にルナが隣にいる。銀色の髪が朝日に輝いている。
ギルドに着いた。扉を開ける。
空気が違った。
カウンターの前に、見慣れない人物が立っていた。
長い外套。フードを深く被っている。背は高い。痩せているが、立ち姿に隙がない。
マーレがカウンター越しに、緊張した面持ちで対応していた。
「ユーリさん、ちょうど良かった——」
マーレが俺を見つけて、安堵と不安が混じった顔をした。
外套の人物が振り向いた。フードの下から、鋭い目が覗いた。
「お前がユーリ・クレイフォードか」
低い声。男だ。年齢は四十代か五十代。声に威圧がある。
「そうだが。あんたは?」
「名乗る必要はない。用があるのはお前ではなく——」
男の視線が俺の後ろに向いた。
ルナに。
ルナの手が、俺の上着を掴む力が急に強くなった。
「その精霊だ」
男がフードを下ろした。灰色の髪。鋭い目。頬に古い傷跡がある。首元から鎖骨にかけて、蒼い紋様が走っている。
契約紋だ。だが、俺のものとは違う。複雑で、禍々しい。
「契約魔法師か」
「元、だな。今は研究者だ。古代契約の研究をしている」
男がルナを見た。
「月精の子。エルドランの記録に残っている。かつて永続契約を結ばれ、封印された精霊——ルナ」
ルナが俺の背中に完全に隠れた。体が震えている。
「エルドランの名前を知ってるのか」
「知っている。彼は私の師だった」
師。エルドランの弟子。
つまり、ルナを封印した男の弟子がここにいる。
「用件は何だ」
「警告だ」
男がまっすぐに俺を見た。
「その精霊は危険だ。古代契約の力は、契約者の生命を代償にする。長く一緒にいれば、お前は死ぬ」
ギルドが静まった。周囲の傭兵たちが何事かと見ている。
「お前の左手の紋章——古代契約の証だ。その紋章がある限り、精霊はお前の生命力を吸い続ける。最初は少しずつ。だが契約が深まれば——」
「嘘です」
ルナの声が俺の背後から響いた。
低い。冷たい。
「嘘です。ボクはユーリを殺したりしない」
「嘘ではない。お前は知っているはずだ、ルナ。エルドランがお前を封印した理由の一つが、それだった」
ルナの体の震えが変わった。怒りに変わっている。
「黙ってください」
「事実を述べているだけだ」
「黙って」
ルナが俺の後ろから出てきた。紫の瞳が冷たく光っている。あの暴走の前兆と同じ目だ。
「ルナ」
俺はルナの肩を掴んだ。
「落ち着け」
「でも——この人、ユーリにボクを捨てろって言ってる——」
「言ってない。俺は聞いただけだ。落ち着け」
ルナが唇を噛んだ。目が揺れている。暴走の瀬戸際だ。
男に向き直った。
「あんたの話は聞いた。で、どうしろと言うんだ」
「精霊を解放しろ。古代契約を解除する方法は——」
「解除はできないって聞いた。ルナ本人から」
「方法がないわけではない。ただし——」
男が一瞬、言葉を切った。
「代償がある」
「代償?」
「精霊の記憶だ。古代契約を解除するには、契約者との記憶を全て消去する必要がある。ルナはお前のことを忘れる。全て」
沈黙が落ちた。
ルナが俺の腕を掴んだ。爪が食い込むくらいの力で。
「嫌です」
ルナの声は震えていたが、はっきりしていた。
「嫌。嫌です。ユーリのことを忘れるなんて絶対に嫌。死んだ方がまし——」
「ルナ」
「嫌!!」
叫んだ。ギルド中に響いた。
俺はルナを引き寄せた。腕の中に抱え込んだ。小さな体を包むように。
「……あんた」
男を見た。
「警告は聞いた。感謝する。だが、俺はルナを手放す気はない」
男の目が細くなった。
「お前が死ぬかもしれんと言っているんだ」
「聞こえてる。それでも、だ」
「……愚かな」
「かもな」
男はしばらく俺を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「後悔しても知らんぞ」
「しねえよ」
男が外套を翻して、ギルドの出口に向かった。
扉の前で足を止めた。
「一つだけ教えておく。エルドランがルナを封印した本当の理由は——ルナの力を恐れたからではない」
振り返らずに言った。
「ルナの愛を恐れたからだ」
扉が閉まった。
静けさが戻った。
腕の中で、ルナが震えていた。
「ユーリ」
「ここにいる」
「離さないで」
「離さねえよ」
ルナが俺の胸に顔を埋めた。泣いている。小さな声で、何度も「嫌だ嫌だ嫌だ」と繰り返している。
マーレが心配そうにこちらを見ていたが、俺は首を横に振った。大丈夫だ、と。
大丈夫かどうかは、本当は分からなかった。
エルドランがルナの愛を恐れた。
三百年前の魔法師が恐れたものを、俺は今、腕の中に抱いている。
怖いか、と自分に聞いた。
怖くなかった。
ただ——この小さな体を、もっと強く抱きしめたいと思った。
それが答えだった。




