10話
角鬼牛の依頼は、結局俺とルナの二人で受けた。
ガルドとの合流は断った。ルナを連れている以上、他の傭兵と組むのは現実的ではない。距離制限もある。そして何より——ルナが嫌がった。
あの夜の泣き顔を思い出すと、無理に他人を混ぜる気にならなかった。
甘いと言われればそうだ。
「街道沿いの南の丘陵を越えた先に、目撃情報が集中してる」
マーレからもらった地図を見ながら歩く。ルナが隣をぴったり歩いている。新しい服に着替えていて、薄青のベストが朝日に映えている。
「ユーリ、角鬼牛ってどんな魔物ですか」
「牛の化け物だ。角が三本ある。体長は馬くらい。突進してくると石壁でも砕く」
「強い?」
「一匹なら何とかなる。群れだと厄介だが、依頼書には単独って書いてある」
「ボクがいれば大丈夫です」
自信に満ちた声だった。
丘を越えると、街道沿いに商人の馬車が横転していた。荷台が砕けて、布や瓶が散乱している。人の姿はない。避難済みだろう。
足跡を見る。深い。重い体重。蹄の跡が土に食い込んでいる。新しい。
「近いな」
剣を抜いた。ルナが俺の背後に立つ。いつもの位置だ。
茂みの向こうから、低い唸り声が聞こえた。
角鬼牛が姿を現した。
でかい。想像以上に。体長は馬より一回り大きく、漆黒の毛皮に覆われた体は岩のように重厚だ。額に三本の角が生えている。先端が鉄のように鈍く光っている。
赤い目がこちらを捉えた。
突進してきた。
横に飛ぶ。地面が揺れた。角鬼牛が通り過ぎた場所の土がえぐれている。馬車を砕くのも当然の質量だ。
「ルナ!」
「はい!」
月の光が降り注いだ。白い光の柱が角鬼牛に叩きつけられる。
——弾かれた。
光が角鬼牛の毛皮の上で散った。効いていない。
「堅い——」
ルナが驚いた声を出した。
「ボクの魔法が通らない?」
角鬼牛が再び突進してくる。今度はルナの方に向かっている。
「ルナ、避けろ!」
叫んだ。ルナが横に飛んだ。間一髪。角が空を切った。
俺は走った。角鬼牛の横腹に剣を突き立てる。
硬い。皮膚が鉄板みたいだ。刃が滑った。浅い傷しかつかない。
角鬼牛が首を振った。角の先端が俺の腕を掠めた。
痛い。
上着の袖が裂け、腕に赤い線が走った。浅いが、血が流れ出す。
「ユーリ!!」
ルナの叫び声が聞こえた。
次の瞬間——空気が変わった。
温度が下がった。春の陽気が嘘のように冷え込み、吐く息が白い。
ルナの目が変わっていた。
紫の瞳が光っている。いつもの柔らかい光ではない。冷たい、蒼白い輝き。
「ユーリを、傷つけた——」
ルナの声が低くなった。別人のようだ。
「許さない」
光が溢れた。
ルナの体から放射される月光が、周囲の草木を白く照らした。影が消えた。全方位から光が差している。
角鬼牛が怯えたように後退った。
「許さない許さない許さない——」
ルナが右手を掲げた。光が集束する。拳大の輝きが、見る間に膨張していく。
これは——さっきとは桁が違う。
体がだるい。急激に。立っていられないほどの倦怠感が襲ってきた。
魔力の供給。俺の体力が一気に吸い取られている。
「ルナ、やめろ!」
声を出した。だがルナには届いていない。紫の瞳は角鬼牛だけを見ている。
光が放たれた。
轟音。地面が割れた。白い光の奔流が角鬼牛を呑み込んだ。
光が収まった時、角鬼牛はいなかった。焦げた地面に浅いクレーターができているだけだった。
膝から力が抜けた。地面に手をついた。視界が揺れる。
「——っ」
吐きそうだ。体中の力が抜けている。指先が震えている。
「ユーリ!」
ルナが駆け寄ってきた。目が元に戻っている。紫の瞳に、恐怖が浮かんでいた。
「ユーリ、大丈夫ですか!? ユーリ!」
「……大丈夫だ。ちょっと——疲れただけだ」
嘘だ。大丈夫じゃない。体がまともに動かない。
ルナが俺の腕の傷を見た。大した傷ではない。だがルナの目に涙が浮かんだ。
「ごめんなさい——ボク、また——」
「泣くな」
「でも、ボクのせいでユーリが——魔力を使いすぎて——」
「お前は俺を守ろうとしたんだろ」
ルナが息を呑んだ。
俺は地面に座り込んだまま、ルナの頭に手を置いた。
「結果はどうあれ、お前の気持ちは分かってる。だから泣くな」
ルナの唇が震えた。
「——ユーリ」
「次は加減しろ。それだけだ」
ルナが頷いた。涙を拭いて、俺の腕に治癒の光を当て始めた。淡い月光が傷口を包む。温かい。
傷が塞がっていく。痛みが引いていく。
だが体力は戻らない。それは時間がかかるだろう。
「帰れるか」
「ボクが支えます」
ルナが俺の腕を引いて立たせてくれた。小さな体で俺を支える。体重差を考えると無理があるが、精霊の力なのか、しっかり支えている。
「……悪いな」
「悪くないです。ユーリのためなら」
肩を貸されながら、街道を歩いた。
ルナは黙って俺を支えていた。時折、俺の顔を覗き込んで表情を確認している。
心配しているのは分かる。
だが——さっきの暴走の瞬間、ルナの目に宿っていた光は、心配とは別のものだった。
ユーリを傷つけた者は許さない。
その感情の強さが、俺を守ろうとする献身なのか、何か別のものなのか——今は考える余裕がなかった。
ただ、肩にかかるルナの手の温かさだけが確かだった。




