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ちゃんとしすぎる女は、甘え方を忘れている

翌朝、紗季は目覚ましより少し早く目が覚めた。

カーテンの隙間から差し込む光が、思ったより明るい。


「……あれ」


枕元のスマホを手に取る。

時刻は6:42。

いつもなら、寝不足で頭が重く、アラームを三回は止めるのに。


――昨日、ちゃんと寝たからか。


それだけで、少し可笑しくなる。

“ちゃんと寝る”なんて、当たり前のことなのに。


シャワーを浴び、髪を乾かしながら、紗季は昨夜のことを思い出していた。

駅から自宅までの十分ほどの道。

律は本当に、ただ隣を歩いただけだった。

手も触れなかったし、距離もきちんと保っていた。


それなのに――。


「……なんで、あんなに安心したんだろ」


独り言が、洗面所に響く。


千石町の交差点で別れるとき、律は言った。


『明日、無理しないでくださいね』


まるで、上司みたいな言い方だったのに、不思議と反発はなかった。

むしろ、守られている感覚に近い。


通勤電車の中、紗季はいつもより余裕をもって立っていた。

メールをチェックし、昨夜返さなかった件に返信を打つ。


『確認しました。スケジュールについては本日中に整理してご連絡します』


それだけでいい。

昨夜、焦って長文を書く必要はなかった。


会社に着くと、同僚の真由が真っ先に声をかけてきた。


「佐倉さん、今日なんか顔色いいですね」


「そう?」


「うん。昨日、また徹夜かと思ってた」


「ちゃんと帰ったよ。雨だったし」


「珍し……あ」


真由は何かに気づいたように、にやっと笑う。


「もしかして、いいことあった?」


「ない」


即答。

即答すぎて、自分でも怪しいと思う。


「その“ない”は怪しい」


「ないってば。ただ……ちょっと、助けられただけ」


「誰に?」


「……年下に」


真由は目を見開き、次の瞬間、楽しそうに身を乗り出した。


「年下!? なにそれ、詳しく」


「取引先の人。仕事の話」


「はいはい」


信じていない顔だ。

紗季はそれ以上説明するのをやめて、デスクに向かった。


午前中の会議を終え、午後。

制作会社とのオンラインミーティングが始まる。


画面に律の顔が映った瞬間、心臓が小さく跳ねた。

昨日と同じ、落ち着いた表情。

でも、画面越しに目が合うと、ほんの一瞬だけ、柔らかく笑った気がした。


――気のせい、かな。


打ち合わせは滞りなく進み、紗季がまとめに入ろうとしたとき、クライアントがまた無茶を言い出した。


『追加でこのパターンも見たいですね。明日までに』


一瞬、空気が凍る。

紗季は反射的に口を開きかけて、止まった。


昨日の胃痛が、よみがえる。


すると、律が静かに話し出した。


『可能か不可能かで言えば、不可能ではないです。ただ、その場合、優先順位を明確にさせてください』


クライアントが眉をひそめる。


『というと?』


『現在進行中の修正AとBのどちらかを止める必要があります。どちらを優先されますか』


理路整然とした説明。

感情を煽らない、事実だけの提示。


結果、追加案は来週に回されることになった。


ミーティングが終わり、画面が切り替わる直前、律が小さく会釈した。

それは紗季にだけ向けられたものだった。


――助けられてる。


まただ。

年下に。


夕方、資料をまとめ終えたころ、社内チャットが鳴った。


【律】

『さっきの件、無理してませんよね?』


紗季は一瞬、指を止める。

心配されるのが、嫌だったはずなのに。


『大丈夫。ありがとう』

そう返すと、すぐに返信が来た。


『それならよかった』

『今日は早く帰れそうですか?』


――なぜ、それを聞く。


仕事の連絡の範疇、と言い聞かせても、胸がざわつく。


『多分、今日は帰れる』

そう打ったあと、なぜか付け足した。


『昨日のおかげで』


既読。

少し間が空いてから。


『じゃあ、ご褒美ですね』

『ちゃんと夕飯、食べてください』


画面を見つめたまま、紗季はふっと笑った。

“ご褒美”なんて言葉、久しぶりだ。


その夜、紗季はスーパーで惣菜ではなく、食材を買った。

簡単なパスタ。

ワインも一本。


食卓に座り、グラスを傾けながら思う。


――私、誰かに甘えるの、下手すぎる。


三十二歳。

年下に気遣われて、嬉しくなるなんて。

みっともない、と心のどこかで思っている。


だからだろう。

数日後、律から来たメッセージに、即答できなかったのは。


【律】

『今週末、もし時間あったら、コーヒーでもどうですか』


ただ、それだけ。

仕事でもなく、飲みでもなく、“コーヒー”。


スマホを握りしめたまま、紗季はソファに沈み込む。


――年下だし。

――取引先だし。

――期待させたら、悪い。


言い訳はいくらでも浮かぶ。


でも同時に、胸の奥が少しだけ、確かに温かくなる。


画面を見つめながら、紗季は深呼吸をした。


「……ちゃんとしすぎ、だよね」


誰にともなく呟いて、ようやく指を動かす。


『コーヒーなら。短時間で』


送信。

すぐに、既読。


そして。


『ありがとうございます』

『土曜の午後で大丈夫ですか?』


紗季は、スマホを胸に抱いた。

断らなかった自分に、少しだけ驚きながら。


年下の彼が、静かに、でも確実に、

自分の日常に入り込んできていることを――もう、否定できなかった。

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