残業の終わりに、年下が立っていた
広告代理店で働く三十二歳の紗季は、仕事も生活も「ちゃんと」回してきた。
けれど気づけば、恋だけが置き去りになっていた。
ある日、取引先の制作会社からやってきた年下のディレクター・律が、紗季の無理を見抜くように言う。
「それ、頑張りすぎですよ。……僕に分けてください」
年下なんて、頼りないと思っていたのに。
会うたびに、少しずつ肩の力が抜けていく。
これは、“ちゃんとしすぎる”彼女が、年下の彼にほどかれていく恋の話。
終電ひとつ前のホームは、都会のくせに妙に静かだった。
紗季は片手に紙袋、もう片方にスマホを持ったまま、白い息を吐く。
画面には、上司からの「明日朝イチで確認お願い」と、取引先からの「差し替え、可能なら今日中に…」が並んでいた。
――今日中、って、もう今日終わるんだけど。
笑いそうになって、喉の奥で飲み込む。
三十二歳。広告代理店のアカウント。頼まれたら断れないのではなく、断らないことが「仕事ができる」の証みたいに思ってきた。
だから紗季は、今日も駅の売店で買ったコンビニコーヒーを飲み干して、誰もいないベンチに座る。
改札を出たところで雨が降っていた。
傘は会社に置いてきた。いつものことだ。
駅ビルの明かりが濡れた地面に反射して、光の上を人が滑っていく。
「……はあ」
ため息は、うまく出ない。
息を吐くことまで、もったいない気がしてしまうから。
背中のトートバッグが重い。
書類、タブレット、予備の充電器、名刺入れ、ポーチ。
“いざという時のため”の荷物が増えていって、いざという時が毎日になった。
その時、紗季のスマホが震えた。
画面に表示された名前で、思わず眉が寄る。
【律(制作)】
『今どこです?』
たったそれだけのメッセージ。
時間は22:47。さっき別れたばかりなのに。
紗季は指を動かして返す。
『駅。今から帰ります』
すぐに既読がついて、次の瞬間、返信。
『動かないで。そこにいてください』
命令形に、目を丸くする。
この年下、距離感が妙だ。
礼儀はあるのに、遠慮がない。
取引先とはいえ、制作会社のディレクターがここまで言うのは珍しい。
紗季が戸惑っている間にも、雨脚は強くなっていく。
ホームの屋根の下まで風が吹き込み、スーツの袖が冷えた。
「……え、なに」
独り言が漏れたとき、駅前の交差点の向こうに、傘を差した男が見えた。
黒い傘の下、背が高く、歩く速度がやけに速い。
近づくほどに顔がはっきりして、紗季は息を止める。
「……律くん?」
「よかった。まだいました」
傘の水滴を払いながら、律が少し息を切らせて立っていた。
紗季より六つ年下。二十六歳。
短く整えた髪、細身のコート、そして何より――目が真っ直ぐだ。
「どうしたの? さっきまで一緒だったじゃない。しかも雨……」
「傘、持ってないって言ってたので」
「え、でも、別に。タクシー乗るし」
「タクシー、拾えます?」
言われて、紗季は駅前の車道を見る。
タクシー乗り場には人が並んでいて、雨の日の列はいつも伸びる。
紗季は、何も見ていないふりをしていたことに気づく。
「……まあ、ちょっと待つかも」
「ですよね。じゃあ、送ります」
さらり、と言う。
その自然さが腹立たしいほど優しい。
「送るって……同じ方向なの?」
「途中まで。というか、紗季さんの最寄り、どこでしたっけ」
“紗季さん”。
今日の打ち合わせで初めて名前を呼ばれた。
それまで紗季は「佐倉さん」だったのに、帰り際、エレベーター前で律が言ったのだ。
『名前で呼んでいいですか。佐倉さんって呼ぶと、壁があるみたいで』
あの時は笑って流した。
取引先に距離を詰められるのは、面倒が増える予感しかしなかったから。
なのに今、雨の中で傘を差し出されると、その「壁」が勝手に薄くなってしまう。
「……最寄りは、千石町」
「じゃあ、同じ線。よかった」
「よくない。律くん、家、反対じゃないの?」
「反対です」
即答に、紗季は言葉を失った。
反対なのに来たの?
律は傘を少し紗季のほうへ寄せる。
肩が触れそうな距離。
香水じゃない、柔軟剤みたいな、清潔な匂いがした。
「……なんで」
紗季が小さく言うと、律は一瞬だけ目を伏せ、すぐに紗季を見る。
「紗季さん、今日ずっと……頑張りすぎでした」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
頑張りすぎ、と言われたことはある。
でもそれはたいてい、“もっと頑張れ”と同義だった。
褒めるための鞭。期待の押し付け。
律の声は違う。
「止まっていい」と言われているみたいだった。
「……仕事だから」
紗季は反射で答える。
それが自分の鎧だ。鎧を外したら、きっと何も残らない。
「仕事だから、って言う人ほど、倒れるまでやるんですよ」
「私、倒れないし」
「倒れた人はみんなそう言うんです」
律の言い方は、優しいのに容赦がない。
年下のくせに、変に大人びている。
紗季はふと、律の手元を見る。
傘を持つ指が長く、手の甲には薄い血管が浮いている。
その手が、今日の打ち合わせ中、ずっとマウスを動かしながら画面を見ていた。
紗季の指示を聞いて、黙って修正案を出して、最後に「これでいけます」と言った。
紗季は、それに甘えていたのだ。
この年下がなんとかする、と無意識に思っていた。
「……ねえ、律くん」
「はい」
「私、年上だよ?」
言った瞬間、何を言ってるんだろうと恥ずかしくなる。
そんなの見れば分かる。
年齢の話なんて、今する必要はないのに。
でも律は、困ったように笑った。
「知ってます。だから、言いにくいですか」
「言いにくいって?」
「送らせて、って言うの。年下が出しゃばってるみたいで」
その言葉に、紗季の胸が少しだけ緩んだ。
律も、何も考えずに踏み込んでいるわけではない。
戸惑いながら、それでも来た。
「出しゃばってない」
言い切ると、律の目が少し大きくなる。
「……ほんとですか」
「うん。というか、助かる。雨、苦手だし」
紗季がそう言うと、律は露骨にほっとした顔をして、傘をさらに紗季のほうへ寄せる。
その仕草が、なんだか可笑しい。
「じゃあ行きましょう。電車、間に合います」
「律くん、走ってきたでしょ。息切れてる」
「……バレました?」
「バレるよ。顔、ちょっと赤い」
「雨のせいです」
言い訳が子どもみたいで、紗季は笑ってしまった。
笑った自分に、驚く。
最近、こんなふうに声を出して笑った記憶がない。
改札を抜け、エスカレーターでホームへ上がる。
律は紗季の歩幅に合わせてくれる。
それだけで、紗季は“気を使う側”から少しだけ解放される。
電車が入ってきて、ドアが開いた。
車内は空いている。
紗季は窓際に座り、律はその隣ではなく、向かい側に座った。
距離を保つ配慮。
それが、逆に意識させる。
電車が動き出してから、律がぽつりと言った。
「今日は……紗季さんに謝りたくて」
「謝る? なんで」
「会議室で、あれ、言うべきじゃなかった」
紗季は思い出す。
打ち合わせの終盤、クライアントが無茶を言ってきたとき、律が口を挟んだ。
『そのスケジュールだと、品質が担保できません。最低でも二日ください』
クライアントが不機嫌になって、紗季が慌てて取り繕った。
結果的に、二日ではなく一日で落ち着いたが、紗季は帰り道ずっと胃が痛かった。
「……あれね」
「紗季さん、立場、きつくなったかなって。僕が言ったせいで」
紗季は、電車の窓に映る自分の顔を見た。
疲れた顔。
でも、少しだけ目が明るい。
「きつくなったのは、確かにある」
律の肩が少し落ちる。
「でも、助かったのも本当。私、言えなかったから」
「……言えなかった?」
「私が言うと、ただの“お願い”になっちゃう。代理店のアカウントって、結局、頭を下げる係でしょ」
自嘲のつもりだった。
でも律は首を振った。
「違います。紗季さんは、守る係です。あの場で、紗季さんが全部飲んだら、誰も得しない」
強い言葉。
紗季は、少しだけ目を逸らした。
胸の奥が熱い。
こんなふうに肯定されると、泣きそうになるから。
「……律くんって、たまに生意気」
「すみません」
「でも……嫌じゃない」
その瞬間、律の顔が固まった。
耳まで赤くなる。
本当に雨のせいじゃないじゃん、と紗季は心の中で笑った。
次の駅で、車内に人が増える。
二人の会話は途切れ、広告の音声だけが流れる。
紗季はバッグからタブレットを出して、未返信のメールを開いた。
――返さなきゃ。
指が止まる。
隣ではない向かい側にいる律が、こちらを見ていないようで、ちらりと気配だけがある。
「……ねえ、律くん」
「はい」
「私、これ、今返すべきかな」
紗季が画面を示すと、律は立ち上がらずに、少し身を乗り出して見た。
眉が寄る。
「それ、今夜返すと、明日も同じことになりますよ」
「でも、返さないと……」
「朝一で返しましょう。紗季さん、今日は帰って寝る。それが最優先」
“最優先”。
そんな言葉を、自分に使ったことがあっただろうか。
紗季はゆっくりタブレットを閉じた。
心臓が、少しだけ軽い。
「……律くん、怖い」
「え、なんで」
「私の逃げ道、作るの上手い」
律は驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「逃げ道じゃないです。帰り道です」
その言葉が、紗季の胸に落ちていく。
帰り道。
戻っていい場所。
仕事のために切り捨ててきたはずの、自分自身に戻る道。
電車が千石町に近づく。
紗季は立ち上がり、ドアの前に立つ。
律も一緒に立った。
「ここでいいよ。ここから歩ける」
「送ります。雨、まだ降ってる」
「……反対方向なのに?」
「反対方向でも、行きます」
律はそう言って、傘を開く真似をした。
ドアが開く。冷たい空気と雨の匂いが流れ込んできた。
紗季は一歩外へ出て、振り返る。
「……ねえ、律くん」
「はい」
「送ってくれるの、嬉しい」
言った瞬間、自分で自分に驚く。
素直な言葉が出た。
鎧の隙間から、柔らかいところが覗いたみたいに。
律は少しだけ目を見開いて、それから、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、ちゃんと嬉しがってください。遠慮、禁止」
「……年下のくせに」
「年下だから、言えることもあるんです」
傘の下で、二人は並んで歩き出す。
雨は冷たいのに、不思議と肩は寒くなかった。
紗季は気づく。
今日、初めて――仕事以外のことで、心が動いた。
その小さな揺れが、これから大きくなっていくことを、まだ知らないまま。




