第9話 白熱のセッションと、新たなる姿
Vtuberに? 俺が? Why?
何を言っているんだ、この人は。俺はさっき契約書にサインしたばかりの、ただの裏方スタッフだぞ?
俺は助けを求めるように社長を見たが、彼は面白そうに腕を組んでいるだけ。ダメだ、この人も同類だった。
「そうですよ! 新しい人をオーディションで雇うお金がないなら、今ここにいる須藤さんがVtuberになれば人件費はゼロです! 完璧なアイデアじゃないですか!?」
自分の名案に一点の曇りもないと信じきっている彼女に、俺は眩暈を覚えた。マネージャーとして、彼女の純粋な情熱を真正面から否定しなければならない。これほど胃が痛む仕事もそうそうないだろう。
「……黒木さん、気持ちは嬉しいんですが、それはあまりに危険な賭けです」
「えっ、どうしてですか!? 須藤さんの分析力があれば絶対に面白い配信になりますよ!」
「ありがとうございます。…ですが、問題はそこじゃないんです。これはあくまで一般論として聞いてほしいんですが…」
俺は彼女のキラキラした目を直視できず、わずかに視線を逸らしながら、頭の中で整理した言葉を慎重に紡いでいく。
「まず、ファンの方々がどう思うか、という点です。Starlight-VERSEは、元々『女性アイドルグループ』として始まった場所ですよね。古参のファンにとって、そこは大切な聖域に近い。そこに僕みたいな人間が突然入ったら…混乱させてしまう可能性があります」
「そ、それは…きっと、事務所が新しくなるって、応援してくれますよ!」
「そう信じたい気持ちは、僕も同じです。ですが、大きな変化はファンを不安にさせてしまう。最悪の場合、『裏切られた』と感じる人が出てきてもおかしくないんです」
俺の言葉に、彼女は「うっ…」と表情を曇らせる。痛いところを突かれたようなその表情に、彼女自身も思い当たる節があるのだと見て取れた。心が痛むが、続けるしかなかった。
「次に、炎上リスクです。男性と女性が二人きりでコラボすると、心ない邪推や嫉妬を招いてしまうことがある。特に『ガチ恋』と呼ばれる熱心なファンがいる場合、僕は君の隣にいる『敵』に見えてしまうかもしれない」
「わ、私のファンにそんな人はいませんっ!」
思わずといった様子で、彼女が声を荒らげる。その必死な表情に、俺は一度「そうですよね」と同意を示してから、冷静に言葉を続けた。
「ええ、僕もそう信じています。ファンの方々は素晴らしい人たちばかりだと。ですが、これはあくまで一般論としてのリスク管理です。事務所の過去の噂がまだネットに残っている今、わざわざ火種になりかねない橋を渡るべきではない……そう僕は考えます」
俺の冷静な言葉に、彼女は今度こそ反論を封じられたようにぐっと唇を噛み締め、俯いてしまう。追い詰めているようで自己嫌悪に陥るが、これが俺の仕事だ。俺は一度、息を吸ってから、最後の、そして最も重要な点を告げた。
「そして、三つ目。…これが一番大事なことかもしれませんが、今の事務所のブランドイメージです。かろうじてこの事務所が成り立っているのは、『健気に一人で事務所を支える黒木カナタ』という、唯一無二の『物語』があるからです。ファンはその物語を心から応援している。僕というノイズは、その美しい物語を壊してしまうかもしれません」
静かな事務所に、俺の不器用な言葉だけが響く。
黒木が悔しそうに唇を噛み締め、小さな拳をぷるぷると震わせている。何か言い返したいのに、言葉が出てこない、といった顔だ。俺はマネージャーとして、非情な結論を告げた。
「――以上の理由から、僕がVtuberになる案は、あまりにリスクが高すぎます。だから、この話は一旦、保留にさせてください」
「却下」ではなく「保留」。
それが、俺にできる最大限の優しさだった。
完璧な正論。これで、この突拍子もない話も終わりだ。
胸を痛めながらも、俺はそう結論づけた。
――社長の、やけに意地悪なニヤけ顔を見るまでは。
「いやぁ須藤くん。君の分析はとても丁寧で、お見事だ。全て正しいよ」
静寂を破ったのは、感心したような社長の声だった。
「ただしそれは――我々が君を『黒木カナタの隣に立つ、第二のアイドル』としてデビューさせるのであれば、の話だがね」
「え…?」
社長の言葉に、俺が築き上げた理論の土台がガラガラと音を立てて崩れ始める。
「君にやってもらうのは、アイドルじゃない。『黒木カナタ』という最高のアイドルの隣に立つ面白いマスコット兼、超有能な技術スタッフだ」
社長は悪戯が成功した子供のように、ニヤリと笑う。
「ファンが嫉妬し炎上するのは、相手が『恋愛対象』になり得る男だからだ。だが、君は違う。彼女の隣にいるのがキラキラのイケメンアイドルではなく、君のような『裏方のオタク』であれば、炎上するリスクなどゼロだよ」
侮辱と、賞賛とが同居した、非の打ち所がないカウンター。
もはや、論理で返せる言葉はなかった。俺に残されたのは最後の、そして最も情けない抵抗だけだった。
「……あ、あの、ですが…」
か細い、自分でも情けなくなるような声で言葉を絞り出した。視線はもう、誰の顔も見ることができない。
「…僕には、その…人を楽しませる、みたいなトークスキルは…全くなくて…。配信なんてやったら、間違いなく…放送事故になります……」
もはやこれは反論ですらない。ただの泣き言だ。俺の検証動画が音声なしのテロップ解説だった理由は一つ。自分の声と話術に、絶望的なまでに自信がなかったからだ。
生放送で気の利いたことを話しながらゲームをするなんて、考えただけで血の気が引く。俺の最大のコンプレックスを、ただ白状することしかできなかった。
しかし、そんな俺の魂の叫びを、社長は待っていましたとばかりに、優しい目で受け止めた。
「ははは、それこそがいいんじゃないか」
「……へ?」
「君に求めるのは面白い話術じゃない。君の『頭のオカシイ分析』そのものだ。君はただ、いつも通りボソボソと呟いていればいい」
社長の言葉には、不思議な説得力があった。俺の最大のコンプレックスを、この人はいとも容易く「価値」だと言ってくれた。その温かさに、心の壁がガラガラと崩れていく。
そしてさらにその隙間から、太陽のような笑顔が差し込んできた。
「そうですよっ!」
それまで固唾を飲んで俺たちのやり取りを見守っていた黒木が、ぱっと顔を輝かせ、力強いガッツポーズと共に言葉を続ける。
「私の隣にいて、色々ツッコミを入れてくれる、いつもの須藤さんのままでいいんです! 須藤さんがボソボソ喋るのを私が全部拾いますから! ねっ!?」
瞬間、俺の中の時が止まった。
そんな無邪気なフォローを正面から浴びて、一体なんと答えれば正解なのか。
(……反則だろ、そんなの)
もう、俺に勝ち目なんてなかった。
ロジックは社長に、心は――この人に、完全に攻略された。外堀も内堀も、全て埋め立てられてしまった。
「……分かりました」
俺がそう呟いた途端、それまで不安そうに俺を見ていた黒木の顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。社長は全てを分かっているように、深く一度だけ頷く。
「よし、決まりだな!」
社長が満足げに頷くと、PCのモニターを俺の方に向けた。画面には、Live2Dモデルの販売サイトが映っている。
「ゼロから作る金も時間もない。ここから君の魂を宿らせる『器』を選んでくれたまえ。もちろん予算は、一番安いやつで頼む!」
「…あ、ありがとうございます…」
俺は深いため息をつくと、その膨大なモデル一覧をスクロールし始めた。隣から、黒木がわくわくした様子で画面を覗き込む。
「わー、いっぱいありますね! あ、須藤さん、この王子様みたいなの、どうです!?」
「……」
「じゃあ、こっちのミステリアスな銀髪のお兄さんは!?」
「……」
俺は彼女の提案を無言でスルーし、ひたすらマウスホイールを回し続ける。そして――まるで吸い寄せられるように、俺の指が一つのモデルの上で、ぴたりと止まった。
ヨレたパーカー。丸メガネ。今の俺より少し恰幅のいい、気の弱そうなオタク青年。
「あの、須藤さん…? まさか、それにするんじゃないですよね……?」
心底不思議そうな黒木の声が、事務所に小さく響いた。
(いいや、これでいい。これが、俺だ)
俺のVtuberとしてのデビューは、どうやらこの世で最も地味で、そして最高に俺らしい姿で幕を開けることになりそうだ。
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