閑話 四畳半の反省会と、運命のルート分岐
夕暮れの日差しを背に浴びながら、自宅アパートのドアを開ける。四畳半のPCとベッドしかない殺風景な部屋は、俺の世界の全てだった。
だが、今日だけはこの狭い城が妙によそよそしく感じられた。
買ってきたコンビニ弁当を電子レンジで温めながら、今日一日のできごとをまるでデバッグ作業のように頭の中で整理していく。
ハロワに向かう途中の公園での遭遇。オンボロ事務所への拉致。押し付けられたPCトラブル。そして――Vtuberという未知の世界。
振り返るまでもなくここ数年で、いや、人生でも数えるくらいのイベントの応酬だった。まるで日陰の人間だった自分が、突然眩しい舞台に立たされたかのような異質な体験をした気がする。
温め終えた弁当を口に運びながら、俺は二つの相反する感情を噛み締めていた。
一つは、半年ぶりに他人と長時間接したことによる、ずっしりと重い精神的な疲労感。
(…疲れた。やっぱり、人と顔を合わせて話すのは苦手だ…)
もう一つはそれとは全く逆の、忘れかけていた確かな手応え。自分の技術が誰かの役に立ち、心から感謝されたという、確かな達成感だ。
その証拠に、俺はもう何度スマホの画面を見返しただろうか。
◆
須藤さん、こんばんは!Starlight-VERSEの黒木カナタです!
(…って、ちゃんと名乗るのはこれが初めてでしたね!にゃはは!)
今日は本当に、本当にありがとうございました!須藤さんのおかげでPCが完全に復活しました!もうダメかと思っていたので、本当に魔法みたいです…!
今も自分のアバターがちゃんと動いているのを見て、ちょっと泣きそうです(こらえてますっ!)おかげで明日の配信、頑張れそうです!
あと……今日はいきなり腕を引っ張っちゃったりして本当にすみませんでした…。やっぱり、強引すぎましたよね…。反省してます。
もしよかったら、また事務所に遊びに来てください!待ってますっ!
【大きな黒猫が、ぺこーーーーーっと深くお辞儀しているスタンプ】
◆
帰路の途中に黒木から届いた感謝のメッセージ。年下の女子から貰ったメールというだけでも頬がにやけそうになるが、これはあくまでビジネスメールだということを脳裏に刻んで自制する。
(そうだ、これはビジネスメール…とすると、返事を書かないのは失礼になる、のか…?)
会社時代の風潮を思い出し、何か気の利いた返信を打とうとして、指が止まる。
(…なんて返せばいいんだ…、分からん…)
送り主の彼女とはビジネスでの関係だとしても、出会ってまだ一日と経っていない。あまりに希薄な関係性だ。距離感も全然測れていない。そもそも俺はあそこにもう一度行くつもりがあるのか…?
「…いや、その前に」
返信を考える前に、まずは相手のことをもっと知るべきだ。会社員時代、取引先の担当者と話す際には必ずその会社のホームページや過去の運用実績などを調べ上げていた。それと同じだ。
俺は自分にそう言い聞かせると、PCの検索窓にその名前を打ち込む。『黒木 カナタ』と。
すると検索結果の一番上に出てきたのは、一つの動画チャンネルだった。
チャンネル登録者数は三千人弱。この数字が多いのか少ないのか、Vtuberという業界に疎い俺には判断しきれないが、社長の発言を踏まえると『弱小事務所』の分類に入るようだ。
俺は、チャンネルにアップロードされている動画アーカイブの一覧に目をやる。一番上に表示されている最新の動画は、昨日のものだ。そのタイトルには【配信中止のお詫び】と書かれている。
(…ん、なんだこれは…?)
再生して表示されたのは、異様な光景だった。
華やかなデザインの配信枠、楽しげに流れていくコメント欄、そしてただデフォルトの壁紙が表示されているだけの、がらんどうの中央部分。
本来そこにいて、笑顔で手を振っているはずのアバターの姿がどこにもない。
どうやら直前のトラブルで配信を中止し、そのお詫びとして音声だけの短い配信を行ったらしい。その声は悔しさで震えながらも、決して暗くはならなかった。
(…この人は、本当にプロなんだな)
主役不在のステージで、それでもショーを続けようとする役者のようなその姿に、俺は素直にそう思った。
(…『立ち絵』も出せないくらいテンパってたか、あるいは『動かない自分』を見せたくないという思いがあったのか)
彼女の思考を分析していく中で、PCトラブルを解決したときに見せたあの笑顔を思い出す。感謝の次に口にしたのは、配信が出来る喜び。それだけファンに対して万全の自分の姿を見せたかったのだろう。
(…誠実を絵に描いたような性格だ。俺とは全然違うタイプの…)
自虐思考に陥りそうになった俺は気分を切り替えるよう、さらに過去の動画を遡る。下へ下へとスクロールを辿っていくと一年以上前に投稿された、やけに再生数が少ない一本のゲーム実況動画に目が留まった。
(…見覚えがある、気がする…そんなはずはないのに…)
妙な感覚を覚えながら、俺の指がその動画をクリックしていた。短い広告の後、再生が始まる。
聞こえてきたのは公園で聞いたあの耳心地の良い声。そして、画面に映し出されているのはあの黒猫のアバター。
だが、俺の思考を停止させたのは彼女がプレイしているゲーム画面だった。
(…『アストラル・クロニクル』だ……)
それも彼女が愛おしそうに操作しているキャラクターは、銀色の鎧をまとった一人の女騎士『シルヴィア』。
瞬間、俺の脳裏をある夜の光景が稲妻のように駆け抜けた。
あれは、いつだったか。
まだブラック企業で心身ともにすり減らしながら働いていた、ある深夜。疲労困憊で、何もかもが嫌になって現実逃避するように開いた動画サイト。
そこで偶然見つけた一つの無名な生配信。視聴者はたったの十三人。そこに一人のアニメキャラ――今にして思えば、Vtuberだった――が、ただひたすら楽しそうに、そして健気にシルヴィアを使い続けていた。誰も見向きもしない、俺だけが信じていた彼女の可能性を熱心に語っていた。
――ほら見て見て!『シルヴィアたん』! これカナタが初めて出したSSRキャラで、カッコいいんだよね~! 初ガチャで引いたキャラで思い入れ補正も強いし…え、弱い…? ちょっと◯◯さーん? そういうネガコメはダメだぞー?――
案件配信でもなければ、始めたてのアカウントでもない。それなりに練達してきたランク帯ならば自然と編成から外れていくであろうハズレSSRキャラ。それが『シルヴィア』というキャラの評価だった。
――じゃあ最上位クエストに連れて行け? そ、それは…えっと、カナタの腕前じゃまだ無理だけどさ…でもいつかきっと輝ける日が来る! うん! そうそう! カナタもそうだけど誰にだって可能性はあるんだよ! あ、今の名言ってことで、にゃはは♪――
その言葉に、疲れ切っていた俺の心がほんの少しだけ救われたような気がした。
「黒木カナタ」という名前すら知らなかった頃から頭の片隅に眠っていた配信者の姿と、公園で俺のノートを見て目を輝かせた現実の彼女の姿が今、頭の中でカチリと噛み合わさった。
「…そうか。あれは…あんただったのか…」
才能はある。光る原石も持っている。なのに、誰にも見つけてもらえていない。
(…似てるな、やっぱり…)
俺の心に沸々と湧き上がってきた独善的な感情。頼まれてもいないのに、望まれているかも分からないのに、それでもその価値を『証明』したくてたまらない。
(…単なる『不遇キャラ』で終わらせるには勿体ない。然るべきステージと正しい戦略さえあれば、彼女は必ず最強になれる――)
その結論に至った瞬間、俺の脳は水を得た魚のようにフル回転を始めた。指が意思とは関係なく勝手にキーボードの上を踊り、ブラウザ上に次々と新しいタブを開いていく。
まず、競合となるVtuber事務所の洗い出しだ。『シャイニー・プロダクション』を筆頭に、大手から中小までの勢力図をマッピングする。
次に、各事務所の所属タレントの特徴とその人気の傾向を分析。歌、ゲーム、雑談、企画もの…どのジャンルに需要があり、どのポジションに空きがあるのか。
『Starlight-VERSE』の現状の戦力は、黒木カナタただ一人。
彼女の強みは、声、アバターのクオリティ、そして『不遇キャラ』を愛する心。
弱みは、配信の見せ方、セルフプロデュース能力の欠如。
ならば、打つべき手は――。
まるで、ブラック企業時代に叩き込まれた、新規プロジェクトの企画書を作成するかのように。俺の思考は狂気的な速度で、彼女を「最強」にするための工程表を描き上げていく。
そこまで思考を巡らせて、ふと、俺は我に返った。
(……待て。俺は、一体、何をやっているんだ…?)
モニターには、いつの間にか大量のタブで開かれたVtuber関連のウェブサイトと、走り書きのメモがびっしりと書かれたテキストエディタが表示されている。
その光景は、かつて俺が会社のデスクで、締切に追われながら狂ったように仕事をしていた時と、全く同じだった。
――頼まれてもいないのに。
――望まれているかも分からないのに。
――そして、何の対価も約束されていないのに。
俺の心に灯ったはずの使命感の炎は、あまりにも熱すぎた。
それは、ただの善意や同情ではない。
かつて、シルヴィアという不遇キャラに全てを捧げた時と同じ、純粋で、独善的で、そしてどこまでも厄介な『狂気』。
俺は、その自分の本質に気づき、静かに身震いした。
(そうだ、関わるべきではない。俺みたいな人間が関わったら、きっと、ろくなことにならない…)
俺が、灯った炎を自らの理性で吹き消そうと、そう結論を出し掛けた、その瞬間だった。
ピロン、とスマホが軽快な通知音を鳴らしたのは。
画面に表示されたのは、俺が登録していた転職エージェントからのメール通知だった。
どうせ、いつもの『お祈りメール』だろう。そう思って、俺は無感情にその通知を開いた。しかし――そこに書かれていた文面は、いつもとは全く違っていた。
『【至急・非公開求人】須藤ナオシ様へ。あなたの経歴に強く興味を持たれた企業様より、ぜひ一度お話を伺いたいとのご連絡がありました』
メールには、誰もが知る国内最大手のIT企業の名前と、破格の給与条件、そして「これまでのご経験を最大限に活かせる、新規プロジェクトのコアメンバーとして」という、あまりにも魅力的な言葉が並んでいた。
(なんで今さら…こんなのが届くんだよ)
数ヶ月間、顔も知らない人事担当に祈られ続けた俺の元に、初めて訪れた『完璧なキャリアプラン』。そこにはきっと安定した未来や正当な評価、なにより俺が本来進むべきだったはずの道が続いているだろう。
(…断る理由なんてない、はずだ…)
俺はそのメールの画面と、先ほどまで見ていた「黒木カナタ」のチャンネル画面とを、ただ静かに見比べていた。
唐突に俺の心に灯った、温かいがあまりにも小さく、か弱い炎。
そしてそれを軽々と吹き消してしまいそうな、強く、魅力的な風。
(…どちらの道を選ぶべき、か)
深い深い息を吐いてから、俺はスマホの画面に指を滑らせるのだった。
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