第4話 貧乏事務所と、イレギュラーな俺
ガヂャリ、と老朽化を感じさせるドアノブの音を響かせ、事務所の扉が開く。
「さぁ着きましたよ! ここが我々の――」
と、それまで順調に案内してきた彼女は中に広がる惨状を見て、「んにゃあっ!?」と猫のような甲高い声をあげた。
「あ、えっと…ちょ、ちょっと待っててください! 早急に片付けますんで!」
そう言って慌て始める彼女の背中越しに、俺はこれから我が身が投じられるであろう奈落の底――事務所の内部を見渡す。
まず感じたのは、古いビル特有の湿ったコンクリートの匂いと、微かに漂う芳香剤のフローラルな香りだった。虫でも居たらどうしようかと身構えていたが、どうやら最低限の掃除はされているらしい。だが、それが一層この部屋のどうしようもない貧しさを際立たせていた。
(えーっと…見慣れてるようで見慣れてない機材があるな…)
おっかなびっくりという足取りで中に入る。目に映るのは三本ある脚のうち一本がガムテープで補強された来客用の椅子に、メーカーのロゴが剥げかけた中古のデスクトップPC。複数あるモニターの一つは画面のところどころに致命的なドット抜けがあり、俺は思わず視線を逸らした。
(何をしている事務所かは知らないけど金が無いって事だけは嫌でも分かるぞ…)
極めつけは壁に手書きで貼られた数々の標語(?)らしき紙たち。
『お弁当の注文は一人700円まで!』
『使わない電気はすぐ消す!』
『エアコンの設定温度は28度厳守!』
ダメだこりゃ、と俺が静かに踵を返そうとしたその時だった。
事務所の奥、申し訳程度のパーテーションの向こうからモゾモゾと人らしき物音が聞こえた。
「――んん、お客さんかい?」
ひょっこりと顔を出したのは、歳の頃は四十代半ばだろうか。ワイシャツ姿で人の良さそうな顔をした中年男性だった。手には錠剤のシート、胃薬でも飲んでいたのだろうか。
「あっ社長! お疲れちゃんですっ!」
「おお、黒木くんか。お疲れ様。…ん? そちらの方は?」
黒木。どうやらそれが、腕を掴んできた彼女の名前らしい。
社長と呼ばれた男性は、彼女の後ろに立つ俺の姿――半年間眠っていたせいで少し窮屈なリクルートスーツ――に気づき、訝しげに首を傾げた。
すると俺が口を開くより早く、隣にいた黒木がまるで自分のことのように胸を張って答えた。
「須藤ナオシさんです! 私が見つけてきた奇跡の人材です!」
「…不正に入手した個人情報を勝手に他人に披露しないでください」
思わず口から漏れた小さなツッコミに、黒木は「ほえ?」と不思議そうにこちらを振り向く。どうやら情報リテラシーという言葉をご存じないらしい。
そんな俺たちの様子を見て、社長はポンと手を叩いて納得した。
「おぉ、ということは君がうちの事務所に就職希望の即戦力か!」
「……え?」
あまりにもポジティブすぎる解釈に、俺は素っ頓狂な声を上げた。
就職希望? 俺が? この貧乏事務所に?
「いや、あの、だから俺は…」
「ははは、照れることはない! 黒木くんが『奇跡の人材』とまで言うんだ、君が素晴らしい経歴を持つ即戦力であることは疑う余地もないとも! それにわざわざスーツまで着て来てくれた律儀さもオジサンは評価するね!」
社長のくたびれた顔がみるみる明るくなり、まるで俺を救世主かなにかと勘違いしているような目で見てくる。やはりここはカルトの勧誘場か?
俺はチラリと事情を知っているはずの彼女に助けの視線を向けた。
「こ、これは…たまたまハロワに行こうとしてて…それで…」
「そうなんですよ社長! この方、なんと有名IT企業でチーフエンジニアまで務め上げた、スーパーエリートプログラマーなんですよ!」
が、誤解を解くどころかありえないほど盛りまくった経歴で、話を進めようとしている。
「…いや、スーパーでもエリートでもないですし。だいたい、その会社、倒産しましたけど…」
「もう、須藤さん! そこは言わなくていいところです!」
俺の正直すぎるツッコミに黒木が頬を膨らませて抗議する様子を見て、社長はどこか感慨深げに呟く。
「いやぁそれにしてもまさか黒木くんが人を連れてくるとはね。事務所の危機とはいえ、驚いたよ。なにせ少し前の彼女なら――」
「す、すとーーっぷっ!!?」
バシンッ! と、やかましい音が事務所に響いた。
見れば、黒木が社長の背中を遠慮のかけらもない平手でひっぱたいたところだった。強烈なツッコミを受けた社長は「ぐふっ…」とカエルが潰れたような声を漏らし、よろめいている。
(…今、なにか不都合な過去をもみ消そうとしたな?)
顔を真っ赤にして社長を睨みつけている黒木の様子に俺が若干引いていると、社長は咳き込みながらもどこか嬉しそうに笑った。
「ご、ごほん。改めて、私はここの代表の青海壮一だ。よろしく」
スッと差し出された名刺には、『株式会社Starlight-VERSE 代表取締役 青海 壮一』と書かれている。
(スターライト…ヴァース…?)
字面を見るだけで今にも輝き出しそうなほどキラキラした名前だ。この事務所の惨状とは不釣り合いすぎる。まるでどこかの芸能事務所みたいだ。
そんな俺の印象を読んだかのように、青海社長は語りだす。
「ここはね、いわゆるVtuber事務所なんだ」
(ブイチューバー…?)
脳裏に、駅のホームで見たキラキラしたデジタルサイネージ広告が蘇る。
『――君も、"V"に会いに行こう!』
「…もしかして、あの駅の広告にあった『シャイニー・なんとか』っていう…?」
俺のにわか仕込みの問いに、青海社長と彼女は一瞬きょとんと顔を見合わせた後、同時に吹き出した。
「にゃはは! 違いますよ須藤さん! あれは業界最大手の『シャイニー・プロダクション』です! うちみたいな弱小とは月とスッポンですよ!」
「ははは、すまないね。もしうちがシャイニー・プロダクションだったら、こんなカビ臭い部屋で君と話してはいないさ」
二人に笑われ、俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。どうやら、とんでもない見当違いな質問をしてしまったらしい。
(待て、整理が追いつかない。つまり、この女はVtuberで、このボロい部屋が活動拠点兼事務所で、俺はその弱小Vtuber事務所にスカウトされかけていると…? 情報量が多すぎる…!)
俺が呆然としていると青海社長は先程までの人懐っこい笑顔を消し、取締役としての鋭い視線を向けながら話を続ける。
「うちも昔はもう少し賑やかだったんだが…まあ、色々あってね。不祥事を起こした者、夢を諦めて去っていった者…。気づけば今この事務所に残ってくれているタレントは、ここにいる黒木くんただ一人になってしまった」
社長は、少し離れた場所でソワソワしている彼女に慈しむような、そして申し訳なさそうな視線を向ける。
「彼女には類まれな才能がある。私は本気でそう信じている。だが、今のこの事務所にはその才能を輝かせるだけの力も資金も、コネもない。情けない話だが」
彼の言葉には経営者としての悔しさと、それでもたった一人のタレントを守りたいという切実な想いが滲んでいた。
(…才能はあるのに、環境や評価に恵まれない、か…)
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に半年間狂ったように向き合い続けたあの銀髪の女騎士の姿がフラッシュバックした。運営から見放され、誰からも忘れ去られ、攻略サイトでは最低評価。それでも俺だけがその真価を知っていた、SSRのハズレキャラ。
(まるで、『不遇キャラ』みたいじゃないか…)
奇しくも思わぬ形で自分の哲学の核心とよく似た状況に遭遇してしまったことに、俺は静かに動揺していた。
そして、社長は最後にこう付け加えた。
「このStarlight-VERSEというVtuber事務所に残された、たった一つの希望、それが彼女――黒木カナタなんだ」
「…黒木、カナタ…」
反射的に、俺はその名前を小さく復唱する。
どこかで聞いたことがあるような名前に、俺の記憶の片隅がチクリと疼いた。だが、思い出せるよりも早く、青海社長は申し訳なさそうに事務所の生命線である機材を指さした。
「…本当なら、ここで黒木くんの素晴らしいビジュアルとパフォーマンスを君にも見てもらいたいんだが…」
社長はどこか誇らしげに、そして悔しそうにそう言った。
「実は少々、困ったことになってしまってね。昨日から黒木くんのアバターが配信画面に全く映らなくなってしまったんだ。我々では原因がさっぱりでね…。君は前職がエリートプログラマだと言ってただろ? もし迷惑でなければ、少し見てもらえないだろうか?」
「い、いや…だから俺は別に普通のプログラマで…」
「お願いします、須藤さんっ! 本気と書いてマジの緊急事態なんですっ!!」
二人分の熱量に押し出されるようにして、俺は問題のデスクトップPCへと目を向けた。
モニター裏の配線はもはや鳥の巣と化している。冷却ファンからは「ヴィィィン」という断末魔のような異音が鳴り響き、デスクトップには用途不明のフリーソフトのアイコンが地雷原のようにひしめき合っていた。
(…Vtuberの配信設定なんて俺の分野じゃないんだが…)
その惨状を見た瞬間、俺の元プログラマとしての魂にカチリ、と小さな火が灯る音がした。
(…ま、やるだけやってみるか)
死んだ魚のようだった俺の目に、半年ぶりにほんのわずかな光が宿った。
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