第29話 小さな教室と、王者たちのチェスボード
課題の見えた練習配信から、数日が過ぎた。
らくなはまだ時折、報告を忘れて突撃してしまうこともあるが、それでも以前に比べれば格段にチームとしての連携が取れるようになってきている。
彼女の努力は、俺と黒木のモチベーションにもはっきりと表れていた。
俺自身もようやくまとまった時間が取れたことで、ゴールドからプラチナ帯まで上げることができた。
そして黒木に至っては練習前の常連だったプラチナ帯をいとも簡単に抜け出し、ダイヤ帯まで駆け上がっていた。さすがはうちのエースだ。
技術的な問題は、時間と練習が解決してくれるだろう。
(…だが、本質的な課題はまだ残っている)
ゲームの連携は取れてきた。だが、俺たちの心の距離はまだ遠い。
特にらくなとの間にはまだ見えない壁がある気がする。
昼休み。俺たち三人は、事務所でそれぞれの弁当を広げていた。
黒木は彩り豊かな手作り弁当。らくなは菓子パンとジュース。そして俺は、味気ないのり弁だ。
少しでも、彼女のことを知りたい。
そんな思いから、俺はごくありふれた世間話を振ってみることにした。
「そういえば、らくなさん。…学校は、楽しいですか?」
「……学校…、行ってない、から…分からない、です…」
「ごふっ!?」
予想外すぎる返答に、俺は口に含んだばかりのご飯を盛大に喉に詰まらせた。
「え、ちょ、ナオシさん!? 大丈夫!?」
「げほっ、ごほっ…! だ、大丈夫、です…っ」
慌てて駆け寄ってくる黒木に背中をさすられながら、俺は涙目でなんとか呼吸を整える。完全に自爆だ。
「ご、ごめんね、らくなちゃん! この人、普段は真面目なんだけどたまにデリカシーがないというか…!」
「…いえ…」
黒木が俺の代わりに謝ってくれるが、空気は最悪だ。
俺はまだ少し咳き込みながらも、必死に言葉を絞り出す。
「す、すみません、らくなさん…。詮索するつもりは、全く…」
「…別に、いじめられてるとか、じゃないから…平気…」
俺の謝罪を遮るように、らくなは静かに自分の情報を語りだす。
「…ただ、…人と話すのが苦手、で…怖いって…いうか…、…ゲームの世界に、居たほうが…落ち着く…んです…」
それは、彼女の口から初めて聞く、私的な思い。
この数日間の練習で、俺たちにほんの少しだけ心を開いてくれたからこその、勇気を振り絞った告白だった。
「……でも…」
不意にらくなは、自分の手の中にある食べかけの菓子パンに視線を落とした。
そして、独り言のように吐息混じりの声でぽつりと零す。
「…友達とか、皆で…集まったり、して…遊ぶのは…、ちょっと…羨ましい…かも……」
嘘偽りも、強がりもない、等身大の少女の羨望。
何故だかその言葉を聞いた途端、俺の胸にも共感性の苦しみが生まれた。
(…俺も多分、昔はそんな風に思ってた気がする。社会人になってからは仕事が忙しくて考える時間すら無かったけど…)
『青春』、なんて言葉に焦がれた時代もあった。
けれどそれは人それぞれが抱く幻影であり、気付けば通り過ぎている。
一回りほど離れた彼女になんて声を掛ければいいか迷っていると、そんな鬱屈した空気すら吹き飛ばすような声が、事務所に響く。
「そっかー! なるほどね!」
え?と、俺とらくなの視線が、同時に彼女に集まる。
「じゃあさ、今日からここがらくなちゃんの『学校』になればいいじゃん!」
威風堂々と、満天の笑顔でそう言い切る黒木。
「毎日ここに『登校』して、ゲームっていう『授業』を受けて、疲れたらお弁当食べて! 部活の仲間も、ちょっとドジな先生もいる! どうよ、完璧じゃない!?」
そのあまりにもポジティブで温かい言葉に、らくなの瞳が驚いたように大きく見開かれる。
俺も暫し呆気にとられたが、彼女の意見に応じるように力強く頷いた。
「…そうですね。俺も、良いと思います。らくなさんが安心して通える場所になれれば…嬉しいです」
「……っ……」
らくなは何も言えないまま、ただ俺たち二人を交互に見つめている。
やがて、その表情がほんの少しだけ、和らいだ。
「…………うん」
その小さな肯定は、今までのどんな返事よりも確かな信頼の色を帯びていた。
まだまだ俺達の連携は、完璧ではないのかもしれない。
それでも、このコンビニ弁当と菓子パンに囲まれた時間こそが、チームとして成長するための土台になるのだと、俺は確信していた。
◇
時刻は、同じ日の午後。
業界最大手、シャイニー・プロダクションのオフィスビル最上階。防音壁に覆われた配信部屋の中に、二つの影が落ちていた。
「――それじゃあ、今日の配信はここまでかな。みんな、またね」
「…うん。…またね、テンマ」
配信終了のその瞬間、王子様のような男の手がまるで慈しむかように、そっと隣のやや目付きの悪い美少女の頭に重ねられた。彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた後、恥ずかしそうに――しかしどこか嬉しそうな表情で――ふいっと顔を逸らす。
やがて配信が切れるのと同時に、部屋を満たしていた甘い空気が嘘のように消え去った。
天輝テンマと月凍ルナ。
二人が組む男女ユニット『Heliotrope』は、太陽と月をモチーフにしたそのコンセプトと、配信での甘い掛け合いから、ファンの間では恋人同士なのではないかと絶えず噂されている。本人たちがそれを肯定も否定もしない絶妙な距離感は、まさしくプロの『カップル営業』そのものだった。
しかし、それはあくまで画面の向こう側の物語。配信外での彼らは――ごく普通の、実の兄妹の顔に戻る。
「…お兄ちゃん、お腹すいた…」
ルナは眠そうに目をこすりながら、兄であるテンマのシャツの裾を子供のようにくいっと引っ張った。配信でのクールな美少女の姿は、そこにはない。
その甘えた呼び方に、テンマはモニターから目を離さず、しかし少しだけ低い声で応えた。
「…ルナ」
「あ……ごめんなさい。…テンマさん」
咎めるような響きを即座に理解し、ルナは慌てて呼び方を訂正する。
いつもの兄妹のやり取りに、ボイスチャットで参加していたヴォイドレッド・アイリスは、やれやれとでも言うように小さく息をつくと、聞こえないフリを貫いた。それが彼女のこのチームでの彼女の定位置だ。
テンマとルナ、それにアイリスを加えた三人は「虚天月」というチーム名でエーペックスの固定パーティを組んでおり、来たるシャイニー・プロダクション主催の大型大会『V王』でも優勝候補の筆頭として注目されていた。
妹の失言に対し、兄のテンマは諭すように言う。
「事務所ではそう呼べといつも言ってるだろ。誰がどこで聞いているか分からないんだから」
「…はぁい」
その厳しさは、彼らがプロとして生き抜くための、兄妹の間で交わされた絶対のルールだ。ファンが熱狂するカップリング名『てんるな』の裏側には、こうした徹底したプロ意識があった。
静かに頷いた妹に、テンマはほんの少しだけ兄の顔に戻って、言葉を続ける。
「もうちょっと待て。このデータだけ確認したら、休憩にするから。…冷蔵庫にプリンあったろ?」
その優しい声とは裏腹に、彼の目はモニターに映し出された膨大な戦績データを絶えず追い続けている。
ルナもプリンという言葉に一瞬だけ表情を緩ませたが、兄の真剣な横顔を見てすぐにチームの参謀の顔へと切り替わる。
「ルナ、何か気になる情報はあるか?」
「うん……えっとね」
ルナは兄と同じ画面を開きながら、事前にマーク済みの箇所へとカーソルを合わせた。
「注目すべきは3チーム…、まぁ去年と同じ元プロ囲ってる箱だけど…、それよりもっと気になるのがあって――」
実績順に並べられたシートから大きく外れた先に、Starlight-VERSEのロゴと、一人の少女のデータが表示される。
「宵星らくな…? 聞いたこと無いな」
「うん、ついこの間デビューしたばかりの新人の子だよ」
「『中身』が有名なのか?」
「それが全っ然。恐ろしいくらい誰も知らないの」
「へぇ、そりゃ完全なジョーカーだな」
テンマは、その異常値に感心したように頷く。
「だが、チームとしての評価は素人同然だ。このIGLはジョーカーの正しい使い方を分かっていない。これじゃ宝の持ち腐れだな」
ふと、テンマは射撃訓練場の隅で黙々とスコープを覗く練習を繰り返している、もう一人のメンバーに声をかけた。
「なぁアイリス。この事務所ってお前の古巣だろ? 何か知ってるか?」
その瞬間、ヴォイドレッド・アイリスの音声が僅かに乱れた。
さっきまでのクールだが、どこか落ち着いた雰囲気は完全に消え去り、彼女の周囲だけが絶対零度の空気に包まれた。
彼女はスコープを覗いたまま、冷たく言い放った。
「…知りません。もう、過去のことなので」
その取り付く島もない声に、テンマとルナもそれ以上は何も聞かない。彼らにとって重要なのは、勝利に関わる情報だけだ。
「…これ以上、このデータだけ見ていても意味はないな」
テンマは、興味深そうに口の端を上げた。
「ルナ。データだけでは計れないものは、どうすればいい?」
「…んー、実際に見たらいい?」
妹の即答に、テンマは満足そうに頷く。
「そういうことだ。この宵星らくなというジョーカー…他のチームが隠しているだろう切り札…。せっかくなら実際に戦う姿を見てみたくないか?」
「えっ…!? それって、もしかして…!」
兄の提案に、ルナはヘッドセットがずれ落ちそうなほどはしゃいでいる。
彼は自らのスマートフォンを手に取り、メッセージを送る。
その宛先はV王の運営責任者。
王者はただ待つだけの存在ではない。
自らが望む戦場を、自らの手で作り出す。
データでは見えなかった『ノイズ』の正体。
加えて全ての挑戦者たちの本当の牙を白日の下に晒すために、彼は宣言した。
「――運営に、本番前の『合同練習』の開催を提案する」
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