第21話 マネージャーの覚悟と、開かれた扉
翌朝、午前十時。
睡眠不足で回転の足りない頭をなんとか動かして、事務所に向かう。
「おはようございます」
「あ、須藤さん!おはようございまーす!」
普段通りの挨拶に、黒木がいつもと変わらない笑顔で出迎えてくれた。ただ、その声にはどこかハリがない。
社長もコーヒーを淹れながら、深いため息をついている。目線の先には仕立てたばかりの配信PCが、主の到着を待ちわびていた。
「…らくなさん、今日も来てませんか」
「そーなんですよー。Discordにもログインしてなくて。まあ、新人Vtuberのドタキャンなんて、業界あるあるですからねー…」
黒木は明るく、茶化すように言った。
社長も、それに乗っかる。
「ははは…全くだ。昔いた子も『インスピレーションが湧かないので休みます』なんて、よく言ってきたもんだ…」
二人は顔を見合わせて乾いた笑いを漏らす。
それが決して本心なんかじゃない事は、鈍い俺にも分かっていた。この異常事態をなんとか「よくあること」だと思い込もうとする、現実逃避の虚勢だと。
(…昨日もそうだ。黒木も社長も、らくなを責めようとはしなかった。無断欠勤にも何かしら事情があるのだと、理解を示してくれていた…)
優しさゆえの傍観。きっと時間が解決してくれるだろうという期待。
何も言わず戻ってきたとしても、温かく迎えてくれる準備はある。
――だが、現実は違う。
俺達にはもう、あまり時間は無い。
俺の脳裏に、昨日の彼女の震える声が蘇る。
『……できるか、わからないですけど……せんせいのためなら…、あたし、頑張ってみます…』
あの決意が嘘だったとは、到底思えない。
ならば、彼女は今一人で何かに怯えているんじゃないか。
誰かが手を差し伸べなければいけないんじゃないのか。
(…あの子を誘ったのは、この世界に引き込んだのは他でもない、俺だ…)
俺は軽く目を閉じ、息を吸い込み、覚悟を固める。
そして、事務所に漂う優しくもどこか諦観した空気を断ち切るように、宣言した。
「…社長。一つお願いがあります」
場違いなほど真剣な声に、二人の乾いた笑いがぴたりと止まった。
「…なんだね、須藤くん」
「らくなさんの…住所を、教えてください」
途端、穏やかだった社長の瞳が鋭さを増す。
「…断る」
短くも有無を言わせぬ拒絶の言葉。
「会社のコンプライアンスとして、タレント本人の許可なく、第三者に個人情報を渡すことは禁じられている。特に須藤くん、君はうちの正社員ではない。あくまで対等なパートナーとしての『業務委託契約』だ。社外の人間である君にタレントの最重要個人情報を渡すことなど、経営者として絶対にできん」
続く社長の言葉は、経営者として何一つ誤りのない、揺るぎない正論だった。
「仲間」だと思っていたはずの社長から、「社外の人間」という冷たい現実を突きつけられる。
かつての自分なら、ここで引き下がるしかなかった。
だが、今の俺はそうじゃない。
「……分かっています」
俺は、社長の鋭い視線をまっすぐに受け止めて、続けた。
「契約上…俺が『社外の人間』であることも。この行動が、コンプライアンスに違反する…重大なリスクであることも…」
「分かっているなら、なぜ――」
「ですが…行かなければいけないんです。契約書に書かれた『マネージャー』という肩書きが――ただの飾りではないのなら」
半年前までの腐っていた俺には考えられない行動と思考。
それを与えてくれた青海社長という恩人への感謝を伝えるためにも。
「…それが後で俺の“罪”になるのだとしても…契約違反だと、この事務所をクビになるのだとしても…構いません。俺が、全ての責任を取ります。だから、どうか…行かせてください、お願いします…」
はっきりと、自分の意見を言い切った。
「………………」
社長は、しばらく俺の目をじっと見つめていた。
まるで、俺という人間の器を値踏みするかのように。
「…………敵わんな、君には」
ふっと、社長の厳しい表情が緩んだ。
そして深いため息と共に、諦めと嬉しさの混じったような声で呟く。
「…いや、最高の『パートナー』だよ、須藤くん。責任なんて言葉、君のような若人が軽々しく口にするんじゃないぞ。何も気にせず、突っ走ってこい」
社長は俺の肩を叩きながら、一枚のメモ用紙を俺に差し出した。二つ折りにされたそれには、らくなの住所らしき情報が乗っている。
(…そうか、俺が言い出さなければ、社長が自分で…)
あまりに用意周到すぎるメモ書きに、俺は彼の思惑を察した。
「…頼んだぞ、須藤くん」
その短い一言に込められた、重い信頼。
俺は無言で頷くと、その小さな紙片を強く握りしめる。
事務所を出ていこうとする俺の背中に、今度は別の声がかけられた。
「――須藤さん」
静かで、芯の通った綺麗な声。
「……あの子のこと、お願いしますね」
『頑張ってください』でも、『気をつけて』でもなく。
事務所のエースとして、そして一人の先輩としての願いを、俺一人の背中に、そっと、預けるような。
重く、温かい言葉。
「……はい。必ず」
それに俺は振り向かず、応える。
二人の温かい想いを背負って、事務所を後にした。
◇
社長から渡されたメモを頼りに進むと、やがて閑静な住宅街の立派な一軒家の前に立っていた。
(…ここ、だな)
表札には、彼女の本名と同じ苗字。
その家の佇まいとあのパーカー姿の少女とのあまりのギャップに戸惑いながらも、俺は意を決してインターホンを鳴らした。
数秒後、やや乱暴にドアが開いて、中からいかつい体格の男が顔を出す。
「…ん? 誰だ、アンタ」
「…あ、あの、Starlight-VERSEという事務所の、須藤と申します…」
この男が、らくなの父親…らしい。
作業着姿がやけに様になっている、強面の親父だ。
(ま、待て…落ち着け…これくらいでビビってどうする…! 見た目は怖いがきっといい人に違いない…っ、多分…っ!)
ぎょろりと妖怪のような目玉に睨まれ、俺は内心漏らしそうになっていた。
「…すたーらいと? 事務所だぁ…?」
「え、えぇ…りなさんのことで、お話が…」
震える声で彼女の本名を口にした瞬間、父親の目の色がスッと鋭くなった。
「…ああ、なるほど。お前も昔来たネットの馬鹿と同じで、娘を狙ってんのか? 今すぐ警察に突き出されたくなかったら、さっさと帰れ」
「ち、違います! 俺は、そんな…!」
必死に弁解しようとするが、父親は聞く耳を持たない。
彼の言葉は、もはや対話ではなくただの威嚇だ。
一方的に娘を守ろうとする、男親としての粗暴な振る舞い。
それを前にした俺は、なす術もなく立ち尽くす。
「話は終わりだって言ってんだろ!」
父親はそう吐き捨てると、今度こそドアを閉めようと内側に力を込めた。
(ダメだ…このまま、帰れるか…!)
「ま…待ってください! お願いします! 一度だけでいいから、りなさんと、話を…!」
ほとんど悲鳴のような声で、俺は叫ぶ。
「しつけえな、アンタ! 聞こえなかったのか!」
苛立ちを露わにした父親が、俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。
その瞬間だった。
ギィ…、と。
家屋の奥、リビングに続く部屋のドアが静かに開く音がした。
その音に、父親の動きがぴたりと止まる。
彼の鬼のような形相が、一瞬でただの父親の顔に戻った。
怒りも威圧も全部消え失せ、そこにあるのは娘の予期せぬ行動に対する、純粋な驚きと戸惑いだけだった。
「……り、りな…? なんで、出てきたんだ…お前…」
ドアの隙間からフードを目深に被ったらくな――もとい、りながおずおずと顔を覗かせている。
僅かに窺えたその視線は父親ではなく、その向こうにいる俺をまっすぐじっと見つめているようだ。
「…………はなし、…したい………」
か細くもはっきりと、自分を取り巻く男二人に聞こえるように呟く。
その言葉の重みの前に、頑なだった父親の壁は音もなく崩れ去った。
「…………ふぅ」
深いため息を一つだけ吐くと、彼はまるで観念したかのように、俺からふいっと目を逸らした。
そして閉まりかけていた玄関のドアを大きく開け放つと、ぶっきらぼうに親指で部屋の中を指さしながら、言った。
「……立ち話もなんだ。…とっとと、上がれ」
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