◆1984年1月23日
希望なき時代。
相変わらず勝者を妬み敗者を笑うことでしか自分自身を守れぬ救い難い人々は、アルカという小世界を舞台にして行われる、美しき人造人間同士の娯楽化された限定戦争——所謂『学園大戦ヴァルキリーズ』——だけを唯一の癒しとしていた。
狼の世。まさに羊の皮を被った、狼達の世である。
◆
「もう……」
アルカ西部の米国フロントにある、同地の『イスラエルの地』こと北京農園。
「そこまでしなくてもいいじゃないの……」
レア・アンシェルはその司令部たるバシール・ジェマイエル国際空港の一室で苦言を呈していた。
「目玉が飛び出してるわよ」
茶色の髪と濃い緋色の双眸を持つGROMにしてラマトカルが今見ているのは、昨年九月十三日の映像。テウルギスト——ノエル・フォルテンマイヤーがサブラ・グリンゴールドを背後から貫いているそれだ。前者は全身が血まみれだが後者は更に酷く、手で腹をぶち抜かれているだけでなく、顔面左側からは視神経だけで繋がった眼球をぶら下げている有様。
「テウルギストはわた……グリンゴールド中佐を嫌っているようですね」
映像はノエルが荒っぽく腕を引き抜くや否や、サブラが力なく倒れ込む模様で終わる。直後レアはため息と共にモニターを切ったが、同時並行で他人事めいた響きを発する者がいた。
「グリ……いえ、私はこの映像とは無関係です。くれぐれもお忘れなきよう」
当のサブラ・グリンゴールドである。
『イスラエルで生まれた、生粋のイスラエル人』
それを名に冠する彼女は、北京農園の最精鋭として学園大戦ヴァルキリーズのあらゆる敵勢力を蹴散らしてきたGROMだ。百七十センチ超えの長身と、赤いヘアバンドとの対比が印象的なセミロングの黒い髪。そして度が入っているのか入っていないのかわからぬ眼鏡の奥には、光の角度によっては薄茶にさえ見える紫色の瞳。ただ、右首筋に個体識別用のバーコードは見受けられない。
「私はさすらいのセキュリティ・コンサルタントであるS中佐。サブラ・グリンゴールド中佐とは、姉妹同然の間柄にある親友同士に過ぎません」
けれどもレアと机を挟んで向き合うサブラは、彼女と一切目を合わせず戯言を抜かし続ける。こいつは誰がどう見てもサブラ・グリンゴールドだが、しばしば機密保持という名目で名乗る『S中佐』を頑なに貫き通そうとしていた。自分は冷酷な歯車ではなく、偶然拾った書類を中国語と勘違いしたせいで、この組織を北京農園という名前にしてしまった愛すべき存在なのだと……。
「アンタが私のために動いてくれたのは知ってる。だけど、あんなことは二度としないで」
しかしレアは一切茶番に付き合わない。マーレブランケの台頭やバリカドイの支援に追われて先延ばしになっていたが、ラマトカルはサブラが昨年の九月一日、前者を叩くべくアゴネシアに許可なく赴いたことを許してはいなかった。
「レアさん……怒っていますか?」
「凄く怒ってる」
揃ってイスラエル国防軍の兵士と同じオリーブドラブの軍服——サブラだけはその左肩部と右胸及び左胸に、本国で訓練課程を修了して得たアトリット基地のアームシールドとツァンハニムの証たるベレー帽、空挺部隊並びに海軍特殊部隊シャイエテット13の徽章が見受けられる——を纏う二人は単なる上官と部下ではない。同性同士ながら肉体的・精神的に深く繋がり合う間柄。
「確かに私は、マーレブランケについての懸念は口にした。でも『そうしろ』と言った記憶はない。一言も言ってないの」
しかし忖度とも取れるサブラの行動は、深い関係に亀裂を生じさせるものだとレアは認識していた。故に彼女は怒っている。
「北京農園という、道徳的にも国際的にも正当化された組織の歯車として……」
「そういうのいいから」
「——ッ」
ぎこちない動作でレアを見たサブラは、彼女の双眸が潤んでいることに気付く。
「レアさ……」
「そういうの……いいから……本当に」
続く言葉もまた震えていた。話せば長くなる理由を持つサブラはアゴネシアで殺された後、これまた話せば長くなる理由で蘇った。しかしレアは、それを結果オーライでは済ませられない。済ませられないのだ。
「私には感情がありません。でもレアさんを守ろうとして、その結果レアさんを深く傷付けてしまったことは……良くないことだと思います」
マーレブランケが動き出したことを知ったサブラは『大切な存在の脅威となる人殺しが復活した』と認識し、領空侵犯を行った挙句アゴネシアの孤立地帯まで単身殴り込んだ次第。どうしてあんなことをしてしまったのか……正直自分でもよくわかっていない。
「本当にごめんなさい」
それでもサブラは謝罪した。論理的な説明はできないが、自分は謝らなければならないと彼女は思っていた。そうしないと、自分にとって必要な何かを失うと感じた故。
「アゴネシアの孤立地帯で殺害された私が、それでも再生できたのは……きっと『北京農園をまだ防衛しなければならない』と思ったからでしょう」
だが返答はなく、レアは静かに立ち上がって窓外——六人乗りの特殊改造車が行き交い、昨年六月十一日の戦闘で撃破されたPT‐76水陸両用戦車のすぐ横を通過していく——を見た。
「何が『感情を持たない歯車』だか……笑わせないで。でも、戻ってきてくれて本当に良かった」
そしてレアは、昨年十一月二十一日のようにブラインドを閉めてからサブラに向き直る。
「アンタがいなくなったら、私の生きてる理由もなくなっちゃうから……」
プレトリアンに拒絶され、ハブナッツと侮蔑されながらも血文字の三文小説をひたすら紡ぎ続けるしかなかったレア。彼女はとある理由から『生きられる限り生きる』という罰を自らに課している。それはサブラに対するせめてもの贖罪。
「だからサブラ……」
レアは荒っぽい動作で軍服の一番上のボタンを外す。十二年前の戦闘中、敵に見付かるのを防ぐためバーコードごと皮膚を引き剥がした傷が露になる。
「私が生きてる理由……思い出させて」
そして最後に襟元を広げ、一秒でも早く繋がりたいとサブラに訴えた。
注1 世界の最果てに存在する地。学園大戦ヴァルキリーズの舞台となる場所で世界各国を模したフロントが各地に存在している。
注2 イスラエルフロントが撤退した後も、米国フロント内に軍事支援団として残っている軍閥。リーダーはレア・アンシェル。
注3 ヴァルキリーの中から極めて低い確率で誕生する少女達。各種ローブ及びエグゾスケルトン、フライトユニット等を用いた戦闘が可能。
注4 第二次世界大戦後、世界を事実上支配するようになった多国籍企業であるグレン&グレンダ社が考案した娯楽戦争。
注5 二代目マリア・パステルナークが率いる米国フロントの軍事支援団。
注6 ソ連フロントのサークル。
注7 東南アジアのどこかにあるとされる国。
注8 イスラエル北部にある海軍基地。
注9 マナ・エネルギーとの触媒の役割を果たす寄生虫。GROMは一部を除く全員が体内に潜ませている。
◆
「こちらを」
先に軍服を着直したサブラは、つい先程までお互いの感情を確かめ合っていた相手に報告書を差し出す。
「これは……?」
トップスを羽織った以外はまだ全裸——ソファの上で行われた秘め事の名残をまだ残しているレア。そんな彼女は怪訝な表情でそれを受け取った。
「気持ちのいい話じゃないわね」
そして数枚捲るや否や、右首筋の傷が疼くのを感じる。恋仲との情交で生じた心地良い気怠さも一瞬で吹き飛んでしまった。
『奴らは二十四時間で全てを終わらせる気だ』
報告書の内容は要約するとこれだ。アルカ各地で活動するモサドの工作員達はキャロライン兵団とバリカドイによるバシール・ジェマイエル国際空港の襲撃を警告していた。
「そんなこと言われてもね……」
レアは困惑した。ソ連フロントの軍事支援団であるキャロライン兵団は戦力を即時展開可能な能力によって、学園大戦における『個人事業主』の最も優秀かつ悪名高い見本となった連中だ。劣勢に立たされたフロントが判定負けを呑み込む条件として、契約した勢力との関係解消を求めるような強者達である。
「襲われる理由がないわよ?」
ただマーレブランケと違って、北京農園とキャロライン兵団には悪い意味での敵対関係が存在していない。それどころか、昨年十一月には揃ってバリカドイを支援しているのだ。
「キャロライン・ダークホーム……」
レアは一旦報告書を置くと背中側を見た。そこには、スティンガーミサイルの発射機が飾られている。昨年マーレブランケとの戦いに際し、これを供与されたバリカドイが感謝の印としてプレゼントしてくれたものだ。
「星も輝かぬ世界を支配する女……か」
今もなお続くマーレブランケとバリカドイの対立において、北京農園は表向き中立を保っている。だが後者のヴァルキリーが、自分達から提供された米国製の兵器なり不良在庫を使っているのは公然の秘密。今月だってコンプレッサー用のタイヤと偽ってファントム用のそれを送っているし、百発近いクラスター爆弾の売買契約だって締結間近なのだ。更には優秀なベルギー人メカニックも引き続き派遣中——だから感謝されることはあっても、恨まれる理由はどこにもない。
「確かにバリカドイは最近、マーレブランケとの戦闘で負った損害を急ピッチで補填しています。それは恐らく、キャロライン兵団の入れ知恵かと」
「十中八九そうでしょうけど……」
懐疑的ながらも、レアはモサドの警告を一笑に付すことはなかった。サブラが指摘した通り不穏な動きがない訳ではないからだ。むしろ、マーレブランケとの戦闘を通してキャロラインと繋がったバリカドイには、以前のような御し易さはないと考えた方がいい。
「エチオピアから買い物もしてるしね」
少し前、バリカドイはエチオピア軍が売りに出したF‐5E戦闘機——米国の支援打ち切りで予備部品が底を尽き、離陸すらままならなくなった十七機——を独自のルートで買い取ったという。野外に長い期間放置されていたそれらは全機例外なく二十ミリ機関砲を失い、電子機器を全て取り外されてはいたが、現在はすっかり元通りらしい。
「加えてファンイベントも盛況のようです」
またバリカドイはここ最近、ソ連フロントと米国フロントの境界地帯でファンイベントと称した事実上の機動軍事演習を繰り返している。つまり必要があればいつでも越境できる状態なのだ。
「それともう一点」
「まだあるの?」
「はい」
これはレアも知らないことだったが、バリカドイは鹵獲兵器のデータベースを最近用意したらしい。簡潔に表現すると『どの部隊が、どの兵器の、どの部品を持っているか』を一元管理できるものだ。貴重な兵器をガラクタとして塩漬けにしなくてもいい訳である。戦場で戦車や装甲車等を鹵獲できても、即時もしくは簡単な整備だけで再使用できるのは少数。どれだけ少なく見積もっても約半数は大規模な修理が必要だったり、部品取り用として解体しなければいけないことを考えると、これは中々の着眼点だった。
「ひとまず全部隊を警戒態勢に。サブラ、悪いけどアンタも待機に入って」
諸々を鑑みた上でレアはその判断を下す。自分の最も深い場所に潜む、自分を否定する者達の正義や行動を否定することに何よりの快楽を覚える狂気。選択の余地なき状況で生きているうちに消せなくなり、最も大切な者に対する感情とは自分の中で一切矛盾せぬそれに大人しく従ったのだ。
「構いません。何度も申し上げた通り、私は陶器の人形のように扱われたいとは思っておりませんので」
「ありがと。頼んだわよ」
しかしレアは、キャロライン兵団やバリカドイが本当に一線を越えてくるとは思っていなかった。その理由は全周を覆う強化コンクリート防壁内のあちこちにヘブライ語で『決して忘れるな!』と記され、上空はソ連製を含む各種機関砲とイラン革命で顧客が消えた死蔵品を各種レーダー等と共に入手したホーク地対空ミサイルで熊蜂宜しくカバー、地上においても、精強な戦車隊及び砲兵隊が敵をいつでも死体に変えられるよう待機している『書類上では米国フロントの非常勤雑用係』の総本山に殴り込むここと同義だからだ。
「どうせ取り越し苦労で終わるわよ」
レアはそこまで言ってから、軍服を着直すためソファを離れる。
「どうせね……」
しかし床に散らばった衣類を拾い上げる彼女は、心の奥底にある言語化し難い感覚をどうしても払拭できなかった。
注1 イスラエル諜報特務庁。
注2 米国製の携帯式地対空ミサイル。
注3 北京農園の構成員は表向きその形で登録されている。