◆1983年11月20日
ここはどこだろうか?
マリアの目の前には、木のテーブルがあった。その上には豪華なオードブルやデザート類がこれでもかと並べられている。
「大佐!」
テーブルの向こう側では、エレナとの愛憎劇が切っ掛けとなって、かつて袂を分かった仲間達が微笑んでいる。一九六六年の二月一日、バス発着場でマリアに二つのことを——自分は地獄には堕ちないことと、自分は地獄にもう堕ちていること——教えた者もいた。
「もう大丈夫。みんな貴方を許しています」
「あんなこと、今度はやっちゃ駄目ですからね!」
もう二度と自分と笑い合うことはないであろう旧友達は、口々に優しい言葉を送ってくれた。それこそ、一九六八年六月十九日と同じように……。
「また最初からやり直しましょう。大佐、今日まで本当によく頑張りましたね」
マリアが「もういいんだ」と静かに告げたのは、両目尻に涙を溜めたエレナがそう言いながら微笑んだ瞬間である。
「えっ……?」
「もういい」
今のマリアは、目の前にいるエレナが本物ではなく、先代の自分が作り出した都合のいい幻影に過ぎないことを知っている。だから長い間心の中で澱み続けたどす黒い染みを、大粒の涙として洗い出すことはない。そんなもの、二代目にはそもそも存在していないからだ。
「でも、大佐——」
「私の中では、もう終わっていることなんだよ」
マリアが首を横に振った刹那、エレナもかつての仲間も、豪華なオードブルやデザート類が並んだテーブルも、皆一様に霧散してしまった。
残ったのはただ、何もない空間だった。
◆
「つまらん夢だったな」
執務室で目を覚ましたマリアは、現在の時刻が午前二時であることを確認してから、開口一番そう吐き捨てる。一九六八年六月十九日、ため息の後に響かせた深い諦観とはまるで正反対だった。
「私だ」
直後マリアは電話で、バリカドイに対する攻撃を予定通り行う旨をエーリヒに伝達。そんな彼女は寝ている時机に突っ伏してもいないし、頬に幾筋もの新しい涙痕を走らせてもいない。勿論、涎の滴りが滲んでいる場所もない。
「準備に二日も必要ない。半日もあれば十分だ」
当然ながら椅子の上で両膝を抱え、言葉の一節一節から海溝よりも深い絶望を覗かせることもない。
それどころか今、歴史を変えようとしていた。
◆
グレン&グレンダ社の清掃班は今日も、BF内に放置されたままとなっている諸々をトングで片付けていた。
時刻は朝の四時。ここは米国フロントとソ連フロントの境界地帯である。
「どうでもいいさ」
清掃班の一人は九月二十四日と同じように、人肉と金属片が複雑に絡み合った丸い物体——原形を留めぬ人体を黒のビニール袋に放り込みながら、どこまでも無関心な様子で呟く。
何かが始まろうとしていた。
ソ連製戦車のエンジン音が米国フロントのある西方から響いてくるし、先程は鉄条網を取り払おうとするマーレブランケの工兵隊ともすれ違った。砲兵部隊が事前選定済みの射撃陣地に入る様子や、偽装網を解いたBMP‐2歩兵戦闘車とBTR‐60PB装甲兵員輸送車が揃って移動する模様も目撃している。
『我々に対するバリカドイの敵意に満ちた態度と、境界に集結する彼らの部隊の由々しき脅威を鑑みた結果、残念ながら我々は、軍事的な対抗手段を取らざるを得なくなりました』
少しして、各所からマーレブランケの宣伝放送が流れ始めた。米国フロントとソ連フロントの境界に何週間も前から部隊を配置していたのは自分達であるにも関わらず、事実とは正反対の破廉恥極まりない大嘘を告げるそれを。
しかし清掃班員は皆、我関せずの態度を崩さない。
理由は単純明快。アルカには有益な知識を持つ理想主義者はいないし、善良な人々を苦痛から救う英雄もいない。また、どんなことになろうとも自分の口座に振り込まれる安月給は変わらないからだ。
故に今回も、清掃班員はこれから始まる全てに無関心を貫く予定だった。
自分達には一切関係ないのだから。
注1 フロント同士が戦闘を行う場所、バトルフィールドの略称。
◆
攻撃が始まった時——米国フロントとソ連フロントの境界地帯に、マーラーの交響曲第一番『巨人』の第四楽章が響き渡った。
「マリア・パステルナークが命じる! 瀝青の池から浮かび上がろうとする者を、その鉤爪で責め立てよ!」
その次に、マーレブランケの移動司令部であるM3ハーフトラックの車上からマリアが叫ぶ。彼女のすぐ真上を爆装したJ‐7戦闘機及びSu‐22M攻撃機が駆け抜けたかと思うと、砲兵隊は編隊の向かう東方目掛けて『ジュネーブ協定を守ろう!』と書かれた砲弾を放つ。
今ここに、マーレブランケの侵攻が開始されたのである。
激しい準備砲撃と空爆が終わると、マーレブランケの地上軍はT‐64中戦車を先頭に立てて境界地帯の各所を突破する。整備不良が原因で、地中に埋められてトーチカ化されたチーフテン戦車やM48戦車が次々に撃破されていく。
バリカドイを戦闘継続不能に追い込めばマーレブランケの勝利。
一方バリカドイは、マリアを殺せばその時点で勝利。
今回の勝利及び敗北条件はこれであるが、バリカドイと観客——正確に言えば学園大戦ヴァルキリーズを楽しむ世界中の愚か者共——が詳細を知らされるのは午前八時以降である。通常、開始前にアナウンスされる筈の諸々は、この戦いにおいては事後報告めいた形でエンターテインメント化されるのだ。
加えて、今回は米国フロントとソ連フロント全体がBFとなる。つまり戦いが行われる場所が、それ即ちBF!
『ロシアを頭で理解することはできない』
そして十九世紀の外交官にして、詩人であるフョードル・チュッチェフが生前祖国をそう評したように、これもまた『そういうものだから』と受け入れられるだろう。アルカは神秘主義的な形而上詩かつ、具現化した世紀末のシンボリズムなのだから……。
◆
バリカドイを叩き潰すと決めた大佐は絶対に正しい。こちらが攻撃しなければ、向こうは必ずこちらを攻撃する筈だ……。
いつも通りM3ハーフトラックの車上から最前線で直接指揮を執るエーリヒはT‐64中戦車のキャタピラが立てる雷のような金属音や、ディーゼルエンジンの唸りを耳にしながら、繰り返し自分にそう言い聞かせていた。
「案ずるな。例え我々の兵器を奴らが使い、奴らの兵器を我々が使ったとしても我々が勝つ」
そんなエーリヒの様子に気付いたマリア——隣に座っている——は、米国製のボディアーマーを羽織った彼を見て微笑む。
「そうだといいんですが……」
ドイツフロント在籍時代、タスクフォース609を率いてアルカ各地における過酷な不正規戦を遂行していたエーリヒは、マリアの配下で戦うことはそれ即ちこの場所による世界平和の維持を、何よりも具体的な形で確固たるものにすると感じてソ連フロントに移籍した過去を持つ。
「物事に絶対はありません」
それは正しかったと現在でも確信しているが、エーリヒは一方で、この侵攻が自軍にとって恐るべき惨禍となってしまったら……とも考えていた。今回の敵はバグやタスクフォース600等とは違う。バリカドイは言わば、正規軍のような勢力なのだ。確かに今この瞬間マーレブランケは勝っているが、そんな連中との初対決には不安もあるし、それは嫌な形で想像の翼を広げてしまう。
「んっ……」
朝の陽光が眩しさを増していく中、爆音で鼓膜を叩かれたエーリヒは青い空を見上げる。大きな影の塊……第二次攻撃隊が自分達のすぐ真上を通過し、東側に向かっていた。編隊が向かう先には数え切れぬ黒煙が立ち昇り、対空砲火らしき光も確認できる。しかし、空爆を阻止するまでには至らないようだ。
「私の分も残しておけよ!」
マリアは力強く立ち上がって、無数の爆弾及びロケット弾を吊り下げたJ‐7戦闘機とSu‐22M攻撃機に何度も手を振る。
全滅してくれたら嬉しいんだけど……。
一方エーリヒは対照的に——それは願望であり、間違いなくそうはならないと重々承知しつつも——空爆が終わる頃にはバリカドイどころか、向こうに虫一匹残っていないことを強く望んだ。
◆
『暇でモテないヴァルキリーズファンの皆さーん!』
午前八時を過ぎた頃。ティエラ・ブランカの孤立地帯宜しく血液と油で漆黒に染まり、すり鉢状の穴だらけとなった大地に、人をどこまでも馬鹿にしたようなアナウンスが木霊した。
『今回の対戦はマーレブランケの鮮やかな先制攻撃で始まりました! 果たしてバリカドイは、ここからどうやって巻き返すのでしょうか?』
続いて勝利条件や両軍の戦力データ等についての放送がグレン&グレンダ社のネットワークを通じて、勝者を妬み敗者を笑うことでしか自分を守れなくなった人々に伝えられた。
ある者はどちらかの勢力に『ママからのお小遣い』をベットし、またある者はお気に入りのGROMの活躍を期待する。最も救い難い輩は、今度こそマリアが負けるという願望に縋る。
こうして、唯一何も知らないバリカドイを除く全員が準備を済ませた。
地獄は正式に幕を開けたのだ。
◆
境界地帯の東側では、事態の重大さに気付いたバリカドイがようやく動き出し、河川を氾濫させていた。勿論、マーレブランケの進撃を妨害するために。
〈我々に従わぬ者は体を幾百の肉片に切り刻まれ、腹を空かせた豚共の餌に成り果てるだろう〉
しかし制空権をしっかり握っているマーレブランケは、一九六八年六月七日のディアトロフ2とほぼ同じマリアの言葉が拡声器を通じて響き渡る中、より一層激しい空爆を敢行する。
〈ゼニート2‐1攻撃! 攻撃!〉
爆音を響かせるJ‐7戦闘機が、地面から砲塔だけを露出させたPT‐76水陸両用戦車やチーフテン戦車目掛けて爆弾投下——それは命中するや否や、激しい爆風と硝煙で車体を包み込んでしまう。
「これが五ヶ年計画の末路か」
数分後その場所に辿り着いた外国人義勇兵の一人は、前進するT‐64中戦車の車上から炎上するチーフテン戦車を見た。すぐ近くには断裂したノーメックスのつなぎから臓物を零している死体や、飴細工のように歪んだユーゴスラビア製のM53軽機関銃が転がっている。焦げた肉の臭いが、顔の下半分を覆う、マリアのそれと同じデザインのスカルバラクラバ越しに入り込んできた。
〈我々が落ちろと命じたならば、鳥さえも木から落ちて死ぬのだ〉
マリアの声が引き続き流れる中で更に前進すると、ZU‐23‐2対空機関砲やB‐10無反動砲を荷台に搭載した日本製ピックアップトラックが燃えている姿も外国人義勇兵は目撃した。そして彼は、相反する二つの感情を覚える。
一つは、これらの戦力が自分達を襲うのではないかという恐れ。
もう一つは、幸運にもそれは阻止されたが、自分達はマリアのために敵勢力をより多く殺すのだという改めての決意。
〈我々は怒りだ。お前達は絶望するであろう〉
間接的な援助だけでは満足できず、自ら武器を持って戦う道を選んだ元軍人の一人は、熱に浮かされたような楽観主義者ではない。されど、FAL自動小銃を握り締める彼の手にはより一層の力が加えられていた。
〈一切の希望を捨てよ。これは我々の復讐なのだ〉
男女の精神的・肉体的な求めの成果物ではない、現代共産主義のロボット共を滅ぼさねばならぬという情念故に。
◆
「第二次防衛ライン、突破されます!」
境界地帯の東側後方にある野戦司令部には、バリカドイの大苦戦を伝える報告ばかりが入っていた。
「こんなことをするのは挑発的かつ略奪的な行為だ。侮辱するにも程がある!」
すぐ近くで発射される多連装ロケット砲の発射音を聞きながら、バタフライ・キャットは怒りを露にした。知らなかったのは我々だけではないか!
「必ず後悔させてやる。高い代償を支払わせてやるぞ!」
どちらが先に売り込んだのかは知りたくもないが、マーレブランケとビッグ・マザーは結託してこの絶望的状況を作り出したに違いない。しかしバタフライ・キャットはこのまま噛ませ犬となった末、再び最終処分場送りにされるつもりは毛頭なかった。
『飢えを知らぬ愚か者はパンの真実を知らぬ。毎日のパンがあればこそ、今日も生きられるのだ』
荒っぽく壁にそう書かれている、長ったらしくて誰も正式名称を覚えていないあの場所に戻るのだけは嫌だ。ベッドも椅子も、かび臭い毛布さえもない牢獄で骨と皮だけになり、ネズミの糞だらけの床を居場所とするのは耐えられない。
「絶滅戦争をしたければするがいい! 滅ぶのは奴らの方だ!」
口内に蘇る、細切れの牛皮だけが浮かぶ汁と腐り切ったジャガイモのマッシュポテトの酷い味を振り払うかのように、バタフライ・キャットは叫ぶ。権限なき生物という運命を避けるためには戦わなければならない。
「ヘリ部隊を出せ!」
「しかし稼働率が……武装も十分ではありません!」
司令部要員のヴァルキリーは即時懸念を表明する。例に漏れず、バリカドイの攻撃ヘリは予備パーツの不足等が原因で大きく機数を減らし、対戦車ミサイルの運用能力もほぼ失われているからだ。
「今の我が軍で使い物になるのはそれ位だ。急げ!」
しかしバタフライ・キャットは聞き入れず、
「守り抜くか、それとも死ぬかだぞ!」
ワシーリー・チュイコフを彷彿とさせる力強い言葉を放った後、苦しい戦況が映し出されているモニターを睨み付けた。
注1 ヴェーグセー・アールタルマトラニーターシュ・ヘリ。事実上の収容所。
注2 スターリングラード攻防戦等で活躍したソ連の将軍。
◆
攻撃の開始から、およそ五時間が経過した午前九時……忌むべき悪魔の軍勢の正統なる後継者は、早くも境界地帯東側のかなり深い場所まで侵入していた。
〈火砲は破壊され、大隊も包囲された!〉
そんな状況下でバリカドイのGROM及びヴァルキリー達は、あらゆる手段を用いての抵抗を試みる。
〈しかし我々は戦い続ける! 決して降伏しない!〉
迫撃砲を用いてT‐64中戦車と随伴歩兵を切り離してから、キャタピラ後部の起動輪目掛けて対戦車地雷を放り込み、履板を崩壊させた者達もいた。彼女らは間髪入れず火炎瓶や代用手榴弾——短く切断された上で、爆薬を巻き付けられた鉄道レールだ——をエンジングリルの開口部や吸排気口に幾つも放り投げ、見事撃破に成功する。
〈降伏より死を選ぶ者は敗れず!〉
しかしこういった例は少なく、戦闘はマーレブランケ優勢で推移していた。
〈他愛もない。このままモスクワまで行くぞ!〉
〈明日には敵司令部の前で記念撮影だ!〉
異変が起きたのは、RPG‐7や火炎瓶で抵抗する敵のヴァルキリーを易々と蹂躙していたBMP‐2歩兵戦闘車の一両が、斜め上方より飛来したミサイルで仕留められた時だ。
〈六号車がやられた!〉
T‐64中戦車を操るヴァルキリー達はドイツ人がBMP‐2歩兵戦闘車の中で生きたまま焼き尽くされる声——とても人間の発する音とは思えぬ、野生動物の断末魔のような凄まじき悲鳴だ——など全く耳に入らない様子で、敵攻撃ヘリの接近を警戒した。
〈シャイタン・アルバ! 太陽の中から!〉
そして砲塔上面のハッチを開けて外を見回した一人のヴァルキリーは、東から毒蛇が迫ってくることに気付いた。敵のAH‐1攻撃ヘリだ!
〈無茶よ! 私達だけでマーレブランケを止めるなんて!〉
〈今はこうする以外にない! 役目を果たせ!〉
現れたバリカドイの虎の子はたったの五機に過ぎない。これが今現在飛ばせる限界で、吊り下げられているのも本来のTOW対戦車ミサイルではなく、左右のスタブウィングにマーベリック空対地ミサイルがそれぞれ一発だ。しかもかなり無理矢理な取り付け方なので、ロケット弾ポッドは全て外されていた。
〈マリアのスタハノフ労働者共が!〉
〈新型戦車だろうと、このミサイルには耐えられまい!〉
しかし戦場に馳せ参じるなり猛攻撃を開始したAH‐1攻撃ヘリは、最新型のT‐64中戦車すらも容赦なく血祭りに上げ、早々にマーレブランケ全軍の前進を停止させてしまうのだった。
注1 ソ連において、高い成果を残して顕彰される労働者。
◆
「シルカを前面に! 車載機銃でも応戦して!」
攻撃ヘリ部隊の出現を知らされたエーリヒは、本日一箱目のカフェイン錠剤を噛み砕いてから命令する。もう飛べる機体は残っていないだろうという判断からバリカドイの航空基地に対する空爆は行われなかったが、どうやらそれは裏目に出たらしい。
レーダーを搭載したZSU‐23‐4自走式高射機関砲は、エーリヒの命令通り戦車隊の前後に移動すると、合計で四門もの砲口から凄まじき弾幕を展開。またT‐64中戦車を操縦するヴァルキリーらも、砲塔のキューポラに装備されているNSVT重機関銃で対空射撃を行った。
こうして二機を撃墜することには成功したが、残る三機はマーベリック空対地ミサイルをほぼ全て撃ち尽くし、低空を我が物顔で飛べなくなってもなお、残る二十ミリ機関砲でマーレブランケを足止めし続けた。
「ノエル、行ける?」
それも報告されたエーリヒはノエルに敵攻撃ヘリの排除を打診するが、
〈ごめん! まだ無理!〉
返ってきたのはNOだ。どうやら十月二日同様、グレン&グレンダ社お抱えのメイクアップアーティスト数人掛かりで化粧や髪の手入れを受けている真っ最中なのだろう。
「なら私が出よう」
仕方ない……第一次攻撃隊はもう基地に戻っている筈だから、J‐7戦闘機の爆装を空対空ミサイルに換えて差し向けようとエーリヒが考えた時——マリアが立ち上がった。
「大佐!」
そそくさとM3ハーフトラックを降りようとするマリアは、大慌てで制止したエーリヒに肩越しの「大丈夫だ」と笑みを送る。
「デスクワーカーもフィットネスクラブに行くものだろう?」
そして、一九六八年の六月二十四日と全く同じ言葉を口走ってから、軽やかな足取りで移動司令部を後にした。
◆
「ロシア人にとって人生は厳しい」
七分十二秒後——マリアは巻き込みを防ぐため、髪型をシニヨンに変えた姿でコルダイト火薬の悪臭に満ちた空を飛んでいた。
「生まれ変わった私は、あらゆる出来事に対して抱く感情が二種類であることに気付いた」
肢体は紫のM1ローブで覆われ、バックパックに被せる形で装備したフライトユニットからは、マナ・エネルギーの青い光跡が延々伸びている。顔の下半分はスカルバラクラバで隠されていた。
「信じ難い楽観主義と、どうしようもない憂鬱だ!」
更には愛用の日本刀こと狗流牙——鞘のない、抜身の状態だ——及び十二連射可能な米国製のMM‐1グレネードランチャーをそれぞれ右手と左手に装備するマリアは、やがて目標を視認。
〈新手か?〉
混線する無線に「そうだ」と返しながら速度を上げ、こちらに気付いたらしいAH‐1攻撃ヘリとの距離をどんどん詰めていく。
まず一機目が温存していたマーベリック空対地ミサイルを放つ。されどマリアはフライトユニットのスラスターを噴射して、空中で後方転回——回転が終わった瞬間、白い弾体部を踏み付けて前方へ飛翔、狗流牙を投擲。
〈うわっ!〉
防弾仕様の厚いキャノピーを構わず突き破ったその先端部は、後席の操縦手を無残な串刺し刑に処す。それを確認しつつ機体に取り付いたマリアは、狗流牙を引き抜くのと同時並行で離脱。
「グエン・バン・チューにはならんよ」
コントロールを失い墜落していくAH‐1攻撃ヘリを尻目に、次機を仕留めに掛かる。スーパーエグゾスケルトンの整備が間に合わなかったため、現在彼女が纏っているのはノエル用の予備に銀色の装甲を取り付けたM1ローブであったが不安はない。何故ならロシアには、生きているのに葬式を開かれた人間は長生きするという迷信があるからだ。
〈駄目だ! 捉えられない!〉
流石にそれとは無関係だろうが、AH‐1攻撃ヘリの前席でガンナーを務めるヴァルキリーはマナ・フィールドで弾かれるどころか、二十ミリ機関砲の照準を合わせることすら叶わない。
「当ててみせろ!」
一方マリアは急機動を繰り返しつつ、バリカドイの戦乙女を煽る。GROMはアルカという閉鎖空間においてのみ威力を発揮する存在で、外部の世界における戦術及び兵器体系から見れば、一笑に付される存在かもしれない。しかしここはアルカであり、アルカにおけるGROMは戦場の頂点捕食者なのだ。
「私を倒せば、その時点でお前達の勝利が確定する!」
それに、負ける気は一切しなかった。無理矢理な方法で従属させていた先代と異なり、寄生済の状態で共に生まれたプレトリアンの調子も上々である。
「やっぱり凄いな……あの人は」
そして脅威から救われたマーレブランケの外国人義勇兵達は、T‐64中戦車やBMP‐2歩兵戦闘車のハッチから身を乗り出していた。額に手を翳して日光を遮る彼らの視線の先で四十ミリ擲弾を撃ち込まれたAH‐1攻撃ヘリが、黒煙を撒き散らしつつ錐揉みしたかと思うと——地面に吸い込まれて爆発する。
「ブラボー!」
「流石です大佐!」
喝采を送る外国人義勇兵達にとってのマリアはまさに、先端技術に身を固めた空飛ぶ騎士。そして空中戦は、あたかも自分達を歓喜させるための闘牛のように思えた。
「とんでもない! 皆さんこそがブラボーだ!」
最後の一機を撃墜したマリアは、空中から彼らに手を振り返す。
「引き続き、宜しく頼みます!」
先端技術に身を固めた空飛ぶ騎士かどうかはさておき、今回マリアが出撃した理由は、自分の信奉者達への精神的な『餌やり』のためでもあった。
注1 南ベトナムの大統領。
注2 マリア専用の強化外骨格。
注3 GROMだけが使用できる防御障壁。
注4 マナ・エネルギーとの触媒の役割を果たす寄生虫。GROMは一部を除く全員が体内に潜ませている。
◆
十一月二十日が夕方を迎える頃には、マーレブランケは境界地帯の東側をほぼ制圧下に置いていた。しかし双方共勝利条件を達成していないため、この戦いはまだまだこれからという状況だ。
〈犬共よ! 汝の生活空間は今や、汝の死の空間である!〉
それでも、初日の勝者がバリカドイではなくマーレブランケなのは誰の目にも明白だった。勝った『あたかも人間の姿をし、残酷な子供の心を持った野蛮人の軍隊』は早速、十月四日同様の恐るべき蛮行を働き始める。
半袖や長袖こと手足の切断行為は勿論、白地に目玉が一つだけ印刷されているカード——我々は常に見ているぞという、酷く陰湿なメッセージを込めた——のばら撒き。極め付けは考え得る最悪の嫌がらせとして、ナチスドイツのハーケンクロイツ旗を一九六八年六月二十五日宜しく掲揚。
「よーし始めよう!」
基本的には礼儀正しく振る舞う。しかし同時に、ありとあらゆる手段を使って敵対する者に制裁を加える傾向がある……UH‐1輸送ヘリから現れた撮影班はマーレブランケに対するそんな評価をある意味で具現化した存在だった。彼らの役目は、組織を支援してくれるパトロン用の返礼品を準備することである。
ある程度の額を出資すると、バグの死体の写真が送られてくる。
より多くの額を出資すると、殺戮の模様が記録されたテープが送られてくる。
更に多くの額を出資すると、殺されたバグの耳や頭蓋骨が送られてくる。
かつて学園大戦ヴァルキリーズのGROMが行っていた個人スポンサーからの資金援助とそのお返し行為を、マーレブランケは高度にシステム化した上でより効率的に展開している。今や携帯式端末から、いつでも支援契約が結べるのだ。
狼の世。まさに羊の皮を被った、狼達の世である。
◆
「上々だな」
同時刻——司令センターに戻ったマリアは、その屋上で今日の報告書を捲っていた。タスクフォース・リガの司令部施設のそれがそうであったように、ここが彼女専用のカフェテリアであることを全員が承知している。
「戦争とは冷厳なものだ。勝てば全てが光り輝き、負ければ全てが灰色となる」
マリアは目の前に立つエーリヒにそう告げてから、ゴムのような分厚い円盤と容赦なく脂ぎったパティがバンズで挟まれている『エッグマフィン風の何か』を一九六八年六月二十四日宜しく齧る。
「だから、一度始めたからには必ず勝たねばならん」
そしてリスのように頬を膨らませたマリアは、万が一敗北してしまった場合は自分だけでなく、関わった者全員の人生を暗転させると再確認していた。それは彼女の中にあるビッグ・マザーへの報復心とは矛盾していない。
「バリカドイの主力を殲滅できなかったのが残念です」
「ヒトラーはロシアの全てを手に入れようとして負けた。気にするな」
たった今エーリヒが口にした通り、バリカドイの主力部隊を全滅させることは叶わなかった。攻撃ヘリが足止めしている隙に撤退してしまったのだ。
「お前が立案した作戦で駄目だったのなら、他の誰でも無理だろう」
「ありがとうございます。ただ、一つお伝えしたいことが……」
エーリヒは感謝の言葉を述べた上で、一枚の写真を差し出す。
「生きていたのか?」
それを受け取ったマリアは、チーフテン戦車の上から後衛戦闘を指揮しているバタフライ・キャットの姿を見て驚いた。てっきり先月のアムニション・ヒルで戦死したとばかり思っていたし、何より次の『彼女』もデビューを済ませているではないか。
「どうやらキャロライン兵団に拾われたようです」
続くエーリヒの考察を受けて、攻撃ヘリの編隊を差し向けたのはこいつだなとマリアは確信する。ただ動じるようなことでもない。エレナ・ヴィレンスカヤが敵軍にいる訳ではないのだから。
「話はわかった。今日はもう休め」
日も落ち始めていたので、マリアは自室に戻るようエーリヒに促す。
先は長いし——恐らくは明日辺りから、何かろくでもないことが起き始めるに違いないのだ。
「バタフライ・キャット……か」
直後マリアは、エーリヒが残した写真を再度手に取る。全裸将軍とも呼ばれるこのGROMとは、どうにも奇妙な縁があるらしい。彼女のことを特段脅威とは感じていないが、何度叩き潰されても挑んでくる点は特筆に値する。
「こういう奴がいてもいいだろう」
マリアの独り言には喜びが滲んでいた。しかしそれは、対等なライバルとしてバタフライ・キャットを認めているからではない。
「一人位……はな」
自分にとって、非常に都合のいい存在だからだ。




