プロローグ
「よぉ、俺は死神だ。」
「うわっ!ゴホゴホ、ゴバ」
窓をすり抜けて中に入ると、驚いた女が奇声を上げて咳き込んだ。そのまま血なんて吐かれたからたまらない。
「お、おい・・・。大丈夫か?」
「ゲホゲホ、ゴホ、ガハ」
一先ず人を呼ぼうとナースコールのボタンに伸ばしかけた手を、何か暖かいものが抑えた。
「あなた、誰?」
眼の前の女はヒューヒューと細い息をしながら、俺にそう問うてきた。
「俺は第零獄管轄、死神だ。血を吐いたが、人を呼ばなくて良いのか?」
俺は答えをはぐらかしつつ、別のことを問う。
「うん、平気。良く分からないけど、私もうすぐ死ぬんだぁ。まぁどうせ禄な事無いし、別にいいか。」
そう言って笑う顔は疲れ切り諦めきってしまっていて、とても少女が見せる様な類のものではなかった。今まで俺が見てきた者たちの中でも、飛び抜けて酷い、そんな顔だ。
そのせいか俺は、思わずふいとそっぽを向いてしまった。そして、短く、
「そうか。」
とだけ返した。
「変な人。あ、でも、死神さんだから、人ではないのかな?」
そういう彼女は手を顔の前に持ってきて、小さくクスクスと笑っていた。
俺は途端に顔が熱くなるのを感じ、照れ隠しになにか言おうとするが、動揺のあまり上手く口が動かない。
それを見た彼女はいっそう可笑しそうに笑い、そのまま咽せこんだ。
「ゲホゲホ、ゲホッガホ!」
「おい!」
心配になり、つい彼女の顔を覗き込むと、ヒューヒューと奇妙な音を奏でながら彼女が言葉を発した。
「なぁに、そんなに私が心配なの?死神さんのお仕事は私を向こうに連れてく事でしょう?本当、変なの。それと、さっきの質問、ちゃんと答えてよ。お名前、あるんでしょ?」
「・・・。」
「黙ってないで何とか言ってよ、死神さん?」
俺は困り果ててしまった。名乗るわけには行かないのだ。何故ならーー、そこまで考えて俺はハッとした。そして、彼女に告げる。
「規則だ。死神は人間相手に名乗ってはいけないとな。だから、死神でも死神さんとでも、好きに呼んでくれれば構わない。」
そう言うと、彼女は小さく頷く。そして、
「じゃぁ、死神さんのお仕事は何なの?死神は人を殺すことが仕事だと思ってたけど、多分そうじゃ無いよね?」
そう言って、ジッと俺の目を見つめてきた。その瞳は黒く、艷やかで、逆らい難い不思議な魔力を持っていた。
「俺達死神の仕事は、対象者を天国か地獄に送り届けることだ。」
そう言うと彼女は一呼吸置いた後に問うてくる。
「天国も地獄も、皆勝手に行くところじゃないの?」
それに対して俺は答える。
「いや、天国も地獄も案内無しには辿り着けない。だから、俺が来た。」
「そう。じゃぁ、死んだら皆死神さん達に会うんだ。」
その独り言のような彼女のつぶやきに、俺は身勝手だと思いながらも答えを返した。
「いや、生前に大罪を犯したものと生前に多くの善行をしたもののみが天国と地獄に行ける。」
「なら地縛霊とかは?あれは何なの?」
「あれらは生前特に何もしなかった、悪人でも善人でも無い者たちの成れの果てだ。天国に行った者たちは楽園で天使となり、地獄に行った者たちは罰を受ける。それ以外の者達は生まれ変わり、天国に行くために再び一生を全うする。だが、中にはそれを拒否するものや、生前に強い執着を持ち、本来歩むべきを道を見失うものが居る。それがお前達が言う、幽霊というものだ。」
ふぅんと彼女は、聞いていたんだかいないんだが良くわからない返事をした。そして、流れるように切り出してきた。
「それなら、死神さんが私のところに来たっことは、私は地獄行きなのかぁ。まぁ、私は三人も見殺しにしてるからしかたないなぁ。」
そう言って、虚空を見つめる彼女につい、声をかけてしまった。
「どうだかな。お前は一人も殺してないと思うぞ。」
「知った風な口、きかないで!」
そう怒鳴ると、彼女はヒックヒックと泣いた。恐らく、怒鳴ったり泣いたりしたせいだろうが、その間彼女は何度も咳き込み、時偶血を吐き出していた。曰く、こういうことらしい。
彼女と彼女の兄は母親に虐待されて育った。一週間以上食べられないことはザラで、二人は犬よろしく首輪をつけられ、それをチェーンで柱に括り付けられていた。だが、家事やお使いの時は首輪を外され、奴隷のようにこき使われたらしい。そして、殴る蹴るは当たり前、物を投げつけられたり、煙草の火を押し付けられたこともあったという。
そんな壮絶な過去を告げ終えた彼女は、ホラ、と言って入院着を少しめくって腹を出した。そこには夥しい数の火傷の跡があった。その傷はどれも可愛らしい彼女の顔には、到底、似つかわしくないものだった。
俺が何も返せずに黙っていると、彼女は続けた。
「他にもねーー」
家には馬用の鞭があって、何か失敗したり、少しでも気に入らないことがあると、背中をそれで叩かれたそうだ。その一撃の威力は甚大で、一発打たれる毎に皮が破け、血が滴ったという。そんなものを、まだ十にも満たない兄弟は良く食らっていたのだそうだ。だが、五年近く続いたその地獄のような日々を終わらせたのは、彼女の兄と、まだ幼かった少女の、何気ない一言だった。
何時もの地獄のような日々、その中で、彼女は只一言、死にたいと口にしたそうだ。それを聞いた兄は、黙って俯向いたまま何の反応も示さなかった。それでも、兄は、その一言を聞いた時点で心を決めていたらしい。とはいえ、それが分かるのは少し先の事だったそうだ。
それからも今まで通り、奴隷のように扱われる日々が続いた。が、ある日彼らの母親は兄へ料理を命じると、そのまま眠ってしまったのだという。そして、それを見ていた兄は持っていた包丁で、そのまま何度も、何度も何度も何度も、母親を滅多刺しにした。その時の兄の顔は、鬼のようで、とても怖かったという。とても少女を守り、庇い、助けてくれていた優しい兄とは同一人物に見えなかったらしい。それはあまりの恐怖で、少女をソファーの裏に隠し、両目と耳を塞がせたそうだ。本心では怖くて怖くて、逃げ出したくてたまらなかったそうだが、足が震えてそんな事は出来なかったらしい。
母親が動かなくなって暫くした後に、兄はその手を止め、回り込むようにしてやってきたそうだ。返り血を全身に浴びて真っ赤に染まり、鈍色の刃を持つその姿はまさしく悪鬼そのものだったらしい。
「笑顔でね、【お母さんは死んだよ、僕が殺したんだよ!これで妹ちゃんが死ななくて良いんだよ!だから、だから、お願いだから居なくならないで!】って号泣しながら言って抱きついてきたの。全部私のためだったのに、私は怖くて、お漏らしなんかしちゃって・・・。」
それから数日間、二人はとても楽しく過ごした。
母親の財布を持ってゲームを買いに行った。食べたかったものを買って、二人で食べた。他にもやりたかった事をたくさんしたらしい。
夜更かしをしても、好き嫌いをしても、家事をしなくたって怒られることのない、天国のような時間だったと彼女は語っていた。
「私さ、それまでゲーム何てしたことなくて。本当に楽しかったんだ。他にも美味しいものいっぱい食べて。こんな毎日がずっと続けばいいなって思ったし、母親が居なくなったんだからずっと続くと思ってた。」
「・・・」
正直、俺は何も言えなかったし、言わなかった。何故なら、過ぎたことに何を言ってもどうにもならないのだ。それは俺自身の経験に、痛い程、理解させられたものだ。それにこういう時は、只々黙って話を聞いてやる、それが一番の慰めになるということも、俺は知っていたーー。
「でもね、そんな幸せな日々は、長くは続かなかったの。」
彼女はそう言うと、ポツリポツリと、続きを話し始めた。独白に近いそれは、多くの死を焼き付けてきた死神にとっても酷く辛いものだった。
なんの処置もせず放置された死体はやがて、酷い悪臭を放つようになった。そして、異変に気付いた近隣住民が警察に通報し、兄は警察に連れて行かれたらしい。
その後この事件は大きな話題となり、警察や世間を賑わせたという。多くの人間が事件に興味を示し、不幸な兄妹に同情したそうだ。二人を擁護する声はとても多く寄せられた。だが、法律は二人に同情しなかった。いや、同情する事を許されなかったらしい。
尊属殺規定によって、兄は極刑に処され、事件から一年以内に殺された。その刑の執行速度は異様なもので、マスコミを始め、多くの人間が騒いだらしい。だが、そんな騒動は三日と持たずに報道されなくなったそうだ。
そして、事件後に保護され施設に入れらていた彼女は、施設の職員や生徒、学校の先生等から親殺しをした子、としてとても酷い扱いを受けたらしい。身体的な痛みこそ無いものの、今までと何ら変わらない、いや、庇ってくれる兄がいなことにより、より一層の苛烈さを纏った地獄を超える地獄のような日々が続いたらしい。
しかし、そんな日々は数ヶ月で終わりを告げたという。というのも、同情した世間から多額の支援金が送られるようになると、会ったこともない親戚のおばさんが彼女を引き取り、自宅の敷地へと招いたらしい。家に帰る車の中でこそ、おばさんはとても優しかったらしい。が、家につくと無理やり首輪をつけられ、外のフェンスへと繋がれ、ゴミ捨て場から拾ってきたのかと思う様な、朽ちかけた犬小屋で寝るように言われたそうだ。暴力こそ振るわれないものの、常に首から、【私は兄に母を殺させました】と書かれたコンクリート製の板を下げさせられ、ドッグフードを食べる日々を送っていたらしい。勿論、学校になんて行かせてもらえるはずもなく、最初こそ毎日出ていたドッグフードも、段々ともらえる頻度が減っていき、カエルやミミズ、庭に生えた草等を食べる日々が続くようになったそうだ。
だが、そんな日々はじきに終焉を迎えた。彼女が中学に上がる頃、叔母の彼女への仕打ちがマスコミにバレたらしい。それは再び大きな賑わいを見せ、連日連夜、てんやわんやのお祭り騒ぎとなり、また別の施設へと送られたらしい。
「ホント、何で皆人の不幸話が好きなんだろうね?」
そういって笑う顔は朗らかだったが、その顔にドス黒く落ちる影は本心を映し出すかのようだった。
そうして中学を卒業した彼女は小さな町工場へと就職したらしい。そこで工場の社長に言い寄られて、キスを始め、多くのことを経験したそうだ。なぜそんなことを?、と問えば、一人で生きていくにはお金が必要でしょう?と言って彼女は可愛らしく小首を傾げてみせた。それにどう返すのが正しいのかわからず思考を巡らせていると、さも当然と言うように彼女が話を続けた。
「お金があればさぁ、幸せになれると思ったんだ。だから我武者羅に働いて、嫌なことも我慢して。でもこんなになっちゃった・・・。」
そう言ってケラケラと笑う彼女は医者を呼ぼうと思うほどに血をまき散らした。
「もうね、治療費が払えないんだ。だから私、明日で退院何だよ?」
「それなら、生活保護を受ければ医療費は掛からないだろう?」
「う〜ん、でもさ、先生にこれ以上治療しても無駄だろうって言われたの。苦しいだけだって。それに、医療保険?かなんかの関係で一度退院しなきゃダメなんだって。だからそれなら、本当に少ししかないけど、やりたいことやったほうがいいかなぁって。」
彼女は何が、とは言わなかった。きっとそれはあえてなのだろう。
「お前がそれで良いなら俺は構わない。が、明日からのプランは決めてあるのか?」
「ううん、決めてないよ。でも、一つだけ決めてあることがあるんだ。」
「何だ?何を決めてあるんだ?」
「彼氏っていうのを作って、一緒に彼が行きたいとこへ行くんだ!」
「はぁ、お前の寿命は・・・」
後3日だぞ、と続く言葉を飲み込んで、彼女を見やる。
「寿命は、なぁに?」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女は何処か猫を思い起こさせる目をしていた。
「んんっ!それでなぁ、兎にも角にも時間が無いわけだが、彼氏候補は居るのか?」
態とらしく咳払いをして話題を切り替えた俺を、彼女がジッと見つめたあと少し目を細めてから口を開いた。
「居るよ?目の前に。大きな黒い柄と赤い刃が付いた鎌を持って、全身に黒いマントをすっぽり着て、黒いお面をつけた金髪碧眼のイケメンさん。とっても優しくって、年は多分十八、九。今ね、目の前でオロオロしてる。」
そこまで言われて初めて、俺は真っ直ぐに立ち直した。がしかし、それを見計らったかのようなタイミングで、ガッシャーンという大きな音ともに、彼女につながれた点滴を引っ掛けてある台が横に倒れた。
「ゴメン!!大丈夫?」
そう声をかけながらすぐさま台を元に戻して彼女を見やると、お腹を抱えて大笑いしている。
そのまま目尻を軽く拭うと
「大丈夫だよ、そんなに慌てなくても。ちゃんと繋がってるよ。」
そう言って針の刺さった腕を差し出し、まだ可笑しそうに口元に手をやる。そんな彼女を見て、少し俺の口角が上がってしまった。だが、それを悟らせまいと、いつもの調子に戻して言葉を紡ぐ。
「俺は死神だぞ?それを彼氏にしたいなんて、とんだ物好きも居たもんだな。先に言っておくが、俺は彼氏なんかにはならないぞ。」
そうハッキリと釘を刺すと、えぇ〜、と彼女が口を尖らせて不満を表に出してくる。
「そもそもなぁ、死神の仕事はーー」
「私を地獄に送ることでしょ?そんなこと分かってるよ。悪人に幸せになる権利なんてないってこともね。」
そう言って大きくため息をつきジプトーンの天井を仰ぐ彼女を見て、思わず俺は訂正を入れることにした。
「地獄に送るっていうのは、何もお前を殺すってことじゃないからな?俺たちの仕事はお前が死んだ後からだ。それまでは好きに過ごしたら良い。何ができるかは知らんがな。」
そう吐き捨てると、彼女の口が動く。
「へぇ〜、死んだ後からが仕事なのに何でこんなに速くから私の前に現れたの?他の人を天国か地獄に連れて行ったほうが良いんじゃないの?」
言われて確かにと納得し、頷いてしまう。
「で、何でなの?」
短く問う彼女に、同じように短く返す。
「規則だからだ。」
「ふ〜ん、変な規則。何か裏がありそうだね?」
「確かになぁ。でも、何も知らないなぁ。」
思わずそう返すと、虚空を見つめていた彼女がちょこんと頷いた。
「アタシちょっと手続きしに行ってくる。」
「・・・?何の手続きだ?」
「退院!」
そう返すと、ピョンとベットから飛び降りるような動作でさっきの点滴を押しながら、病室のドアを開けて出ていこうとする。その背中に視線を投げつけながら、ふと辺りを見回すと、カーテンが天井から垂れて他にも数人の患者が居ることが分かった。
「お前、良かったのか?」
「何が??」
「いや、俺は当然、他の人には見えないわけだし、気が狂ったと思われてるんじゃないか?」
「別にいいでしょ?どうせ明日の朝には退院何だから。」
そう言いながら振り返る彼女は、どこか嬉しそうだった。