峠道
ある夜、山道を走っていた営業マンの男は暴走車に遭遇する。
突然の激しい閃光に目がくらんだ。
僕は対向車のヘッドライトをもろに受け、緊張で発火したように全身が熱くなった。
視界が飛んでしまい、気は動転し、アクセルをはなすと同時にブレーキを踏む。
しかしカーブでハンドルを切っていたから、タイヤは砂利道にグリップを失い、車体は大きく横滑りした。
経験のない挙動に、背中はシートに押し付け、手足は突っ張った。
その目の前を猛スピードで対抗車が走り抜けていく。
僕は頭にきてクラクションを鳴らした。
「なんだよ、バカヤローっ!」
と声も張り上げた。
まさに寿命が縮んだ。
からだの震えが止まらない。
僕は助かったと、すがるような気持ちでハンドルを抱き締めていた。
周囲に目をやると、車は百八十度回頭し、後ろのバンパーは崖の法面すれすれだった。
崖下に転落していたかもしれないと思うと、ゾッとする。僕は落ち着くよう大きく息を吐いた。
峠の山道で、危うく大事故にも繋がりかねず、九死に一生を得た思いだ。
「なんて非常識な奴なんだ」
ライトを上向きにしていたことにくわえ、尋常ではないほどのスピードが出ていた。
「あれはシルバーのZだった」
あんな風に暴走を助長する車をつくっているメーカーにも問題がある。
僕はハンドルを切り返し、運転を復帰させた。言い知れぬ恐怖感と、ぶつけようのない怒りが胸にしこっていた。
時刻は夜の十時を少し回っている。
山道は暗く、薄気味悪いほど静かだ。
あの暴走車に出くわしてから、前後を走る車も、すれ違う車もないまま、峠はゆるやかな坂道が続いた。
しばらくつづら折りのカーブを下っていると、後ろから一台の車が追ってきた。ぐんぐん距離が縮まるのがルームミラーでわかる。
僕は先を譲ろうと思い、ハザードを焚いて脇に車を寄せた。追い抜くには見通しがいい直線だった。
だが、そんな気づかいとはうらはらに、車は後ろでピタリと止まった。それが先ほど遭遇したZとわかり、僕は顔がひきつった。もう焦ってしまい、ほとんど無意識に車を出した。
情けないことにびびってしまっている。
危険を察知し逃げようとしていた。
「さっきのクラクションがまずかった。腹を立て引き返してきたんだ」
僕は懸命に営業車のバンを飛ばした。
ヘアピンカーブが続き、車内に積んだ荷物は転げ回り、外ではタイヤが悲鳴を上げている。
しかしそう必死になったところで車の性能が違い過ぎる。ちらちらとミラーを見るが、やはりZは追いかけてくる。追いかけているというよりは、もはや連結車のように追尾している。
「どうしろと言うんだ!」
すると、いきなりZが横に並んだ。
その瞬間ちらと、運転席が見えた。
僕は、あっと声をたてた。
ハンドルを持つ細い腕が見えた。
ほんの数秒のことで目の錯覚かと思ったが間違いない。
あれは子どもだ、それも小学生ぐらいの。
「なんてことだ、運転してるのはガキじゃないか!」
僕は思わず叫んでいた。
相手が子どもと知れて、気が大きくなった。
しかもあの無茶な運転が、子どもの悪のりとわかれば見過ごすわけにもいかない。
追い抜いたZは、先導するように前を走っている。
僕は立場が逆転したようにZを煽った。くれぐれもこれは報復ではなく道義心からである。
自動車はよもや子どもの玩具ではない。
悪戯にしたって度は越えている。
停止するようクラクションを鳴らし続けた。
異変に気付いたのは、ふとカーナビを見た時だ。車は森の中を走っている。
と次の瞬間、ふわっと体が軽くなったような気がした。重力を感じない。
だがその直後、今度は激しい衝撃とともにエアバッグが開き、顔を打ちつけた。そこでようやく状況が飲み込めた。
車は谷に転落したんだ。
「うっ、ぐう……」
思わず右脚に激痛が走った。
これは直感で折れていると思った。
前から崖下に突っ込み、ボンネットが潰れ身動きが取れない。完全に下半身が挟まってしまった。
歯を食い縛り懸命に腕を使って脱出を試みたが、人の力ではどうしようもない。じんじんと骨折の痛みに意識は失いそうだ。
車内は積み荷で散乱している。僕は救急車を呼ぼうと、転落の拍子に見失った携帯を探した。
「キキキキィ」
見ると、その声の主は、林の中に立っている。
僕は息を飲んだ。
恐怖で全身が凍りついた。
こいつは恐らくZを駆っていた人物。
いや、それは子どもでもなければ、この世のモノでもなかった。
目に映ったのは邪悪そのもの。──餓鬼だった。
「キキキキィ」
醜悪な小鬼は、狂気じみた眼光を放って車に近付いてくる。
「おい、なんだっ! やめろ、あっちへ行けーっ!」
僕は大声を出した。
力一杯叫んだ。それは恐怖を振り払う虚勢だ。
身動きが取れない僕は、泣き叫ぶ他なかった。
餓鬼はフロントガラスを叩き割った。
細い腕をしているくせに平気で突き破ってくる。ガラスは飴細工のように粉砕された。
さらに凄まじい力で、車の屋根を引き剥がしてしまった。奴にとって僕は、甲羅の中の蟹味噌も同然だ。
「キキキキィ」
餓鬼が手を伸ばしてきた。
首に手がかかる。
「ぐうう……うっ」
なんて力だ……苦しい……。
頭から齧りつくつもりだ。よだれを垂らし大きな口を開いた。
もう駄目だ。
喰い殺される。
一貫の終わりだ。
僕は固く目をつぶった。
◇
「ムシャムシャクチャクチャ ジュルッシュルッ」
「もう、またユキちゃんったら、行儀よく食べなさいってママ教えたでしょ」
「はあーい。──それにしても今日、パパ遅いね」