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白燕石奇譚  作者: 檀 瑠里
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 ーー瑞兆のある娘が皇帝に召し出されて身籠るようなことがあれば、そうでなくても微妙な立場になりつつある皇太子の地位を危うくしかねない。


 王皇后は、自身が後見する皇太子の立場が再び揺らぎだしたのだと理解した。これまでに何度もねじ伏せてきた不安が自身のうちから沸き起こり、それが肌の下を這い回りだした不快感に絹の手入れの施された細い手を袖の中で握りしめた。


それでなくても皇帝には寵愛する倢伃たちがおり、その女たちには実子がいてそれぞれが虎視眈々と皇太子を廃する機会を窺っているのである。


 そのような状況下において皇帝の長子である劉奭が皇太子の地位に立てられたのは、その実母が皇后に任じられていたことによるものが大きい。「子以母貴」、「子は母を以て貴し」すなわち正妻である皇后の子である故に、その他の女たちの子とは別格であったのである。そしてその実母が亡くなったあと後見役を務めている王氏が皇后であることも大きく影響していた。

 なにしろ王氏が皇后に立てられた理由の一つに、生来のその出自が他の倢伃たちよりも高かったということがある。

 もともと王皇后の実家である王家は高祖・劉邦から二十等爵のうち二番目に高位である「関内侯」を賜わった由緒正しい家で、その位は皇后の父の代にまで受け継がれてきた。そもそも爵位は子孫に継承することができる一方、罪を犯した場合はそれを持って贖うことが許されていたので、逆にいうならば不品行があれば爵位が下がることもあった。だが、王氏はそのような愚を犯すこともなく、そつなく処世してきた一族であったのである。

 また娘の立后に伴い父・王奉光が邛成侯に叙され最上位の「列侯」を賜ったことで、王皇后は他の倢伃たちの出自を圧倒的に凌駕し、それが現在の後宮内での、ひいては帝位後継者を巡る勢力争いに一定の重石となっていたのである。


 そのような微妙な均衡を保っている後宮内に瑞兆をもつ女が入りこみ、万が一にも皇帝の寵愛を受けその結果として男児が生まれるようなことがあればどうなるかは考えるまでもない。


 瑞兆をもつ母から生まれた皇子は母親の出自を別格扱いされることが明らかである。それこそ、武帝の趙倢伃、通称・拳夫人の生んだ劉弗が年長の皇子たちを差し置いて第八代皇帝として即位したように。

 皇太子位に揺さぶりをかける機会があれば周囲は決してそれを逃そうとせず、後宮に燻る火種は一気に燃え上がり、全てを焼き尽くすまで止まることはないであろう。

 そしてそれは長じれば皇太子を後見者である皇后としての立場をも危うくすることにつながるに違いなかった。

 

 一方で、皇帝は思慮深い皇后の瞳の奥を覗き込みながら考えを巡らせていた。

ーーこれはちょうど良い機会かもしれん。おかしな予言など全くもって当てにならぬことを世の中に示してやろう。自分が召し出さなければ絶対に「母天地」などになり得ないのだから。


 妙な噂のある女を巡って息子たちが奪い合いをすることになれば目も当てられないことになる。息子たちだけが争いあうのならばまだいい方だ。仮に殺傷沙汰になったとしても親として至らなかったのだと考えれば諦めもつく。だが息子たちは皇子という立場にあり、それが故にその争い事には必ず大勢の者が巻き込まれる。そしてその結果無辜の者たちまでのいらぬ血が流されることになってしまうだろう。

 そのような事態を避けるためにも自分の後宮に納めさせ、ーーその娘に取っては不幸かもしれないがーー自らが手をつけずに一生を過ごさせるのが良いだろう、と判断を下したのである。


皇帝は王皇后に向かって頷いた。


「あなたの提案通り、その娘は掖庭に()れるが宜かろう。ただ、朕としては手をつけるつもりはない。皇太子もいるし、他にまだ四人の皇子がいる中に余計な火種を投じる気はないからね」


 決然と言い切った皇帝に対して王皇后は小さく首肯しながら、そのように仰るだろうと思っておりました、と心で呟いた。この決定がおそらく全てを丸く収める方法であろうことをよく理解していたが、年端もいかない娘を想像してもいないであろう地獄に突き落とすことになるのだと思うと、やはり心が痛んだ。

 瑞兆のあるその娘は、女としてそして母としての幸せも味わうこともなく、残りの人生の、きっと無限とも思える時間を嫉妬と怨嗟の嵐の中で過ごしていくことになるのだ。

 これを地獄と言わずしてなんと言えようか。


 だが視線をあげて皇帝を再び見た時にはそのような考えを表情には一切表さず、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。

「かしこまりました。陛下の思し召しに叶うようにとり進めましょう。かの娘も陛下のご温情をありがたく思うに違いませんわ」


 それから程なくして、長安にある王禁の邸に王皇后からの使者であるという宦官が訪れた。

 侯淵と名乗ったその使者は、密やかに皇子の喪に服す王禁とその家族に対して王政君が皇帝の後宮に召されることになったことを厳かに告げた。


 喪に服す期間は関係性によってさまざまであるが、王政君は王皇后の前例に倣い、皇子・劉旴の喪が明けるまでの3年間を親元で過ごし、その後改めて掖庭宮に召し出されることになった。

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