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楚王・項羽によって濟北王に封じられた田安を祖とする、済南郡東平陵(現在の山東省済南市章丘区)に本貫、すなわち戸籍をおく「王」家という一族があり、その中に王賀、字を翁孺という人物がいた。王賀は漢が最も繁栄を謳歌した武帝の時代に順調に出世を遂げ、その治世末期には監察業務を行う侍御史の一つである繍衣御史に任命された。
繍衣御史とは繍衣直指とも呼ばれ、地方に蔓延った盗賊の討伐を監督したり、また盗賊の出現を防ぐことのできなかった地方官を摘発し場合によっては誅殺を含めた処罰を下すことすら許されていた、一種の特命を帯びた官であった。
そのような強権を伴う繍衣御史として魏郡に派遣された王賀は、どのような御史が来たのかと警戒し遠巻きにしている周囲の者たちを前にして、権威の象徴である斧杖を無造作に脇におき、刺繍を施された上衣を寛がせて呵呵と笑いながら言った。
「法律を振りかざして無闇矢鱈に厳しく罰せずともよかろうよ。他人に危害を加えた賊やそういう奴らを放っているような役人は論外だが、やり直しができそうな奴とかこれから役に立ちそうな者まで追っかけ回すこともあるまいさ。生きていりゃ間違いを犯すことだってあるだろうからな、小さなことにまで目くじらたてて誅殺してたら人がいなくなってしまうじゃないか」
おおよそ皆が考えるような繍衣御史像ーー融通が効かない、四角四面、面白みがない、人を罰したがるーーとあまりにも異なる様にあっけにとられる周囲をよそに、王賀は平然としていた。
そして有言実行とばかりに賊には賊の、役人には役人の事情があるだろう、というある意味おおらかな法律の運用姿勢を貫き、ーーまた多分にして元来のいい加減な性格も相まってーー王賀は己が担当地域で率先して摘発してまわろうとはしなかった。何しろ運悪く摘発されてしまった者たちがあったとしても、それらの違反者を必要以上に厳しく罰しようとはしなかったほどである。
ひとり摘発すれば一族郎党に類が及び百人単位の人間が連座するのが常であったから、いうなれば王賀は数千人、万の単位で人の命を救ったのも同然であった。
管轄下の住民には密かに感謝されたが、やはり周りの繍衣御史と比べるとあまりにも数が不自然すぎたことが時間と共に仇となった。なにしろ地域は違えどほぼ同時期に同職務についた暴勝之という者は、それこそ上から下まで片っ端から取り締まって容赦なく処罰・誅殺していたので、そのような業績優秀な者と比較されてしまえばその差が歴然としていたからである。
あるとき侍御史を統括する御史中丞が勤務成績のあまり振るわないものたちに不審を抱き、念のためとばかりにその勤務内容を精査したその中の1人に、王賀も含まれていたのであった。
「こりゃあ、いけませんな…」
「ううむ…」
「これはもはや見逃すというのではなく、仕事をしていなかったといった方がむしろ納得できるような内容ですな」
「罷免、するしかあるまいな」
「さすがにそれしかありませんね。これを見逃しては示しがつきません」
温情に溢れた、だが見方によっては杜撰としかいいようのない仕事具合が露見してしまうと、当たり前のことだが王賀は職務怠慢の廉によって問答無用で罷免されてしまったのである。
ー私は万にも上ろうという数の人間を救ったのだから、自分に見返りはなかったとしても子孫の誰かが救われる事もあることもあるに違いない、と自らを慰めつつ、失職した王賀は魏郡に居続けるわけにもいかなかったので仕方なく故郷である東平陵に戻ることにした。
しかし、地元に戻っても職を失った理由が理由だけにまともな公職につけるわけもなく、加えてその地に根付いている親族たちから冷たい視線に耐える日々を送らなくてはならなかった。
自業自得であるが故に居心地の悪さを必死に耐えていた王賀であったのだが、溜まりに溜まった鬱屈からある日ついに地元民と揉め事を起こしてしまい、よりにもよって相手から命を狙われないほどの深い恨みを買ってしまうことになった。
己の死か、相手を殺してその恨みから逃れるか。
「命をやりとりするのは性に合わないからな…」
究極の選択をせざるを得なくなった王賀はしばしの熟考ののち、物理的な距離をとることで命を奪い合うという運命から逃れることにした。要はほとぼりが冷めるまで身を隠せば良いのである。
そしてその行き先として多数の人々の命を救い人々に感謝された以前の任地のことを思い出すと、善は急げとばかりにさっさと魏郡元城県委粟里へ移り住んだ。
幸いにも魏郡では諸手を挙げて迎えられ、のちに王賀は有徳者として地域の取り纏め役ともいえる三老を務めるほどの人望を得るに至った。そしてその頃には恨みを買った相手も死んでしまい、どこに住んでいるかを知られたとしてももはや命の危険を感じることもなくなったことから、本貫を魏郡元城県委粟里に移し骨を埋めることにしたのであった。