夏の終わり
台風の吹き抜けた蒼天を、はぐれ雲が流れていく。
とんでもなくどうでもいい天気をただぼうっと眺めてみる。
夏の、終わり。
染み渡るように、そのフレーズが、ある想念を象る。
涼しい色合いのアイスを齧りながら、少女が駆ける。
田舎道、あぜ道、歩道、田んぼ道。
ありふれた夏の一日。懐かしい日々。
あの子の髪が揺れる、揺れる、激しく揺れる。
陽光煌く。用水路が光を乱反射する。少女の髪はそれを受けて、一際夏の色を閃かせた。
玉虫色の光り。ああ、夏の日の思い出。
ぼくはひたすら追いかけた。
理由があったのか、それともなかったのか。ぼくはそれを今も言葉にしたくない。
田んぼを抜け、丘を越え、川沿いを上っていくと林に辿り着いた。
昆虫のパラダイス。
カブトムシを探しに行く。
そんなぼくに、怯えたように少女が言う。
「戻ろうよ」
ぼくはそれを聞き流し、薄暗い樹々の間を早足で通る。
恐る恐る彼女もついて来る。
ミンミンゼミやクマゼミが命を謳歌する合唱を高揚と共に鼓膜を震わせる。
湿気を多く含んだ涼風が立ちはだかり、そして吹き抜ける。
誘うような風を受け、林の出口に向かって駆けだした。
気色ばんだ声ではしゃぎながら少女が続く。
森のように深く思われた鬱蒼の林を抜けると夏の日差しがぼくらを再度出迎える。
その輝きに目が眩む。
思わず目を閉じて立ち止まったぼくの背に少女の感嘆の声が響いた。
「わぁぁ!」
ただただ胸の内をさらけ出すように上げられた声は、彼女の素直な性格と相まってとても喜ばしい出来事の訪れを感じさせた。
目を見開く。
そこには――、
一面の向日葵が天に向かって咲き誇っていた。
鮮やかな黄色と女性の髪のような鈍い茶色。
太陽の恩恵をたっぷりと得た、八月の代名詞がぼくらを待っていた。
たまらず駆けだす少女。
向日葵をかき分けて物怖じ1つせずに走り出した少女の白いワンピースに、またどやされるかな……なんて苦笑しながら、ぼくも、ぼくよりもずっと大きな夏の花畑に向かって飛び込んだ――
回想から意識が戻る。
海側の空には大きな入道雲が浮かんでいる。
毎秒ごとに姿を変える積乱雲の美徳に内心感嘆しながらため息を一つ。
青空は今も変わらない。昔とちっとも変わらない。変わったのは僕だ。
少女は、死んだ。死んでしまった。
消えるように、どこか遠くへ行ってしまった。
両親は言う。
「そんな子は初めから居ない」
「夢じゃない?」
あの子は死んでしまった。殺されてしまった。消えてしまった。
いないことになっていた。
「あるいは死んだのは君の方かもしれない」
親友が脳裏で語る。
親友の姿を形どった僕の影が、囁いた。
「存外、そうなのかも。初めから居なかった人間を、居たのだと思いこんでいる。これが病気でなきゃなんだっていうのか。そうでなければ、死んだのはぼくだ」
僕は応えるように独り呟いた。
運命に踊らされるように、風鈴がちりーんと小気味よい音を奏でた。
「君、風を運命と呼ぶ癖はいい加減やめたまえ。恥ずかしくてかなわん」
親友が顔を覆った。
裏切ったはずの親友が僕に忠告してくれた。
僕が、お互いの友情を断ち切ってまで消したはずの親友が。
――自殺したばかりの青年が。
そのまま彼は崩れ、塵となって風に運ばれていった。
「……風は運命みたいなものだろう?」
僕は。
またも独り呟いた。
階下から妹の呼ぶ声がする。
トウモロコシが茹で上がったらしい。
生返事を返して、最後にもう一度だけ頭上を見上げる。あるいは見下ろした。
晴れやかな天空。照りつける陽射し。滑空するグライダー。打ち上げられたスイカ。生白い半月。
いつも通りの夏空。
――ポツリ
水滴が垂れる。頬を流れ落ちる。
晴れているのに雨粒とは、また妙なことがあるものだ。
原因を捜索する。悪戯な運命の発生源を。
答えはすぐに分かった。先ほどのはぐれ雲。灰色に染まった浮浪者がいつしか僕を見つめていた。
――ポツ、ポツ
やがて水滴は雨に。雨は滝に。滝は大海に。
局地的に墜落し始めた。思うに、驟雨とは飛行機の墜落と同義だ。
逃げることさえできず立ち尽くした僕を、陽光は絶えず味方する。
晴れているのに雨が降っている。
雨が降っているのに晴れている。
どっちつかずの不適合者。裏切り者、浮浪者、エトランゼ。
どこへも行けないはぐれもの。なににも成れないはぐれもの。
僕はそれだ。
僕は晴天に降る雨雫だ。雨中に差し込む夏の陽射だ。
――応じるように、僕の運命が雲を裂いた。
直に八月の終わりが訪れる。
――夏が、終わる。