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ぴたりと手を止め、首を捻る。
料理番……。はて?
『ナーコ』
軽い口調で名を呼ぶ声とともに脳裏にウィンクをよこすキザな男の顔が浮かんだ。
「……それはもしやレニー・エバンスのことを言っているのですか?」
恐る恐る思い当たる男の名前を口にする。
アレクシスは頷いた。鬼の形相で。
「そうだ」
そうか、レニーと私が手に手を取って駆け落ちしたと。
いや、ないわー。ないない。レニーと駆け落ちとか絶対ない。
レニーは軽く自惚れやでキザな男だったが、面倒見のいい兄ちゃんで何より幼馴染一筋だった。
『おっと、ナコ。俺に見惚れてたな? 気持ちは分かるが、駄目だぞ。俺には女神がいるからな』
鳥を捌くのを見学しているとウィンクをしながらよく言われたものだ。
「な、なるほど、レニー・エバンズと……。そ、それは確かなのですか?」
一体なにがどうなったら、私がレニーと逃げたなんて話になるのか。
「皇帝の首をとって戻ってみれば姿が消えていた。料理番と逃げたと聞かされたのだ!」
そうだ。私が日本に戻ったあの日、アレクシス達は最後の決戦の時を迎えていた。
快進撃を続け、ついに帝都にたどり着き皇帝の首をとりに出陣した。私はレニーと共に支援者の屋敷に匿われつつ朗報が届くのを待っていた。
地平線の彼方に沈みつつある太陽を眺めながら皆の無事を祈り、気づけば日本に戻っていた。
「だ、誰に?」
「わが国の将軍、サイ・ファウラーだ」
サーーーーーーーーイーーーーーーー!!
「ほう、ファウラー将軍に」
こめかみがひくつくのが分かった。
あの熊! 私になんの恨みがある!
地獄の特訓を受けさせられた過去と相まって、ふつふつと怒りが湧き上がる。
「聖女ヤマダ。お前が只人ではないことは認めよう。頼む、ナコの行方を教えてくれ」
「知って……どうするというのです?」
私は恐る恐る、尋ねた。
アレクシスが奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「けりを付ける」
鋭い眼光が、見えていないはずの私の視線と交わる。
「けりを……ですか」
ごくりと唾を飲み込む。
そのけりとやらが、穏やかなものでないのは明らかだ。
「しかし、十二年も前の話でしょう」
も、もう時効じゃないかなー。
「十二年間、俺は……ナコを忘れたことは一度もない!」
至近距離で睨まれ、ひぃっと漏れそうになる悲鳴をすんでのところで呑み込む。
「そ……うですか。武王のお気持ちはよくわかりました。しかし、残念ながら私もナコの行方については知らないのです」
「本当か?」
アレクシスは全く納得していない様子だ。
「私は神より、此度の会談を見届けるよう遣わされました。神はおっしゃっておりました。ナコなる女の存在が、会談に影を落とすだろう……と」
「どういうことだ。ナコが来ているとでも?」
目の前にいます。
「いいえ、いいえ、そうではありません。今はまだ詳しく話せませんが、ナコの件は極秘にしていただきたいのです。いいですか? 他の者の前で決してナコの名を口にせぬようにしてください」
じゃないとレニーと二股どころか、五人も恋人がいたのがバレるから。
「時がくれば自ずとわかります。よろしいですね。それまで決してナコの名を口にしてはなりませんよ」
少なくとも私がこの島から逃げるまでは絶対に駄目だ。
真剣な口調で語りかけると、アレクシスはしかめっ面で頷いた。
「分かった。時がくればわかるのだな?」
「そうです。神のご加護があらんことを」
私は十字を切ってから左右の掌を合わせた。
「それでは……」とその場を後にしようとし、木の前に佇むアレクシスを振り返る。
「ナコの行方ですがレニー・エバンズとは、今は共にいないと、それだけは断言できます」
そう言い置くと、私は中庭から廊下に戻った。
澄ました足取りで、決して慌てず急がず。
部屋に入ると、つかつかと室内を横切り、ソファーに座るとクッションに顔を埋める。
「どうなってんの! 私がレニーと逃げた!?」
空に向かって思いっきり叫びたいところだが、そうもいかない。
思いのたけをクッションに吸わせ、はたと気づいた。
(レニーと逃げた私の行方がわからないってことは、レニーの行方もわからないってこと?)
私は日本に戻った。
ではレニーは一体どうなった?
嫌な想像が頭の中を駆け巡る。
(まさか、潜伏先がバレた?)
あの時、私たちは帝都のほど近くにある小さな町の有力者の家で匿われていた。そこがバレて急襲を受けたのだとしたら……
死体があれば行方不明扱いにはならない。
もし、レニーが連れ去られていて、私も同時期に消えたのを誤解されたのだとしたら……
私はすっくと立ち上がる。
確認せねばならない。