一章02.「『怪物』」
嫌だ…。苦しい…。こんな辛い思い誰かに代わってもらいたぐらいだ。嫌だ。嫌だ。――まだ死にたくない。
そう思った瞬間、ハッと目が覚める。血まみれの制服に汗だくの身体。そのはずなのに不自然なくらいに怪我やら痛みやらが無くなっている。いやそもそも死んだはずなのになぜ意識があるのか。
「どういうことだ?確かに僕は屋上から飛び降りて……。ここは、もしかして――天国みたいなところか?」
辺りは木々が生い茂り、太陽から降る光が所々から顔を覗かせている。それがどこか神々しく、イツキが天国かと思ってしまうのも頷けるほどに綺麗な風景だ。
「僕はやっと死ねたの…か?」
死後はてっきり、意識とかそういう概念すらなくなると思っていた。何も考えなくてよくなると思ったから死を決意したのに、死後の世界があるなんて詐欺もいいところだ。いやでも、あんな世界に居るくらいならこの綺麗な世界に居た方がマシかな。
それにしても急にこんな所で何の説明もなしに放置プレーされるとかどれだけ鬼畜なんだ。自分で手探りに模索して勝手にしてろってことなのか。
そう判断したイツキは、とりあえず立ち上がり辺りを散策し始める。甘い香りのする草木の間をすり抜けるように歩いた。空腹感を感じつつ、しばらく適当に彷徨っていると近くから――
ガサガサガサッ
と草むらをかき分けるような音が鳴った。
もしかしたら、死後の世界ならお決まりの神様とかその使いが来てくれたのかもしれないと心のどこかで安堵した。いや、安堵してしまった。
音の鳴る方を長い前髪の隙間から期待に満ちた瞳で見つめる。
――そして、遂にその音を鳴らしていた主と目が合う。
「は…?」
単純な第一声だった。
その音を鳴らしていた主が、神様でも何でもなく緑色の肌に尖った鼻と耳の『怪物』なのだから。
どうなっているんだ。死んだと思ったら、意識があって、そして今目の前には知ってはいるけれど見たことのない、否、存在するはずのない『怪物』がいるなんて。どこからどう見てもこいつは、『ゴブリン』じゃないか。
ゴブリンは、武器も持ってない上に明らかに動揺しているイツキを見て不敵に口角を上げ、鋭い牙を見せつけ、その牙からダラダラと涎を零す。この世界のゴブリンにとって『人間』は高級食材そのものだった。
つまり、今ゴブリンはイツキを久しぶりのごちそうとして見ている。
「な、なんでゴブリンがいるんだよ…。」
イツキは初めて見る『怪物』に畏怖し、その場で腰が抜けて倒れる。
「く、来るな!あっち行けよ!」
必死に叫ぶ。意味がないことは承知の上だった。それでも叫ぶことしかできない。
だが、当然現状が覆るはずもなく、ゴブリンはイツキの前に立ちはだかり、手に持った棍棒を大きく振りかざしイツキの頭めがけて振り下ろした。
グシャ。
骨が砕ける音が波紋のように体に鳴り響く。
「ぐぁっぁぁぁ」
イジメられていた時にしていたように、咄嗟に頭を腕で庇った。
しかし、痛い、クソ程に痛い。死んだ時と同じ痛み。あの時ほどではないが、意識が飛びそうになる。そして、また痛みで現実に引き戻される。あの時の再現か何かかと思うぐらいの痛み。
「あぁぁぁぁっぁぁ」
痛みに耐えられずにもがくイツキに急所を刺さずに楽しそうに眺めるゴブリン。
イツキはこの光景に見覚えがあった。そう。自分よりも劣っている者を見て快楽を覚えているあいつと同じ『瞳』だ。
逃げなきゃ。ここから一刻も早く逃げなきゃいけないと本能が叫ぶ。そこでイツキは、ようやく違和感に気付く。
何故、痛い。何故、こんなにも痛い。何故、草木の香りがする。何故、空腹感がある。何故――こいつから逃げて生きたいと思っている。
ここが死後の世界であるのであれば、痛みなど感じるはずがない。五感が働いている訳がない。そもそも死んでいるのに意識があるという時点でその矛盾をもっと疑うべきだった。
――ここは、『現実』だ。
ゴブリンは苦しむイツキを眺めるのに飽きたのか、再びイツキの元に歩み寄る。
「く、来るな…。」
イツキの頭上に棍棒を振り上げ、ニヤリと笑った後、二度目の攻撃を喰らわす。
イツキはそれをまた両腕でガードする。ただでさえ砕けている腕を更に酷使することに全く躊躇わなかったのは死ぬ辛さを前以て知っていたから。それでもこの痛みを二度も我慢できるはずもなく意識が朦朧とする。
ここで意識を失えば、もう次に目が覚めることはきっと無い。それを受け入れてしまうのも一つの選択肢だろう。だが、一度生きたいと望んでしまった自分の心は簡単には曲がらなかった。必死に意識だけを保つために血が出るほど下唇を噛み締める。
ゴブリンはそれを見て、急に口角を下げる。生に固執する『人間』を警戒した。ここまで死の運命に抗おうとする『人間』と今まで出会ったことがなかった。今すぐ殺してしまわないと何かマズイ予感がするとゴブリンの本能を刺激する。
三度ゴブリンは棍棒を振り上げて、イツキにトドメの一撃を喰らわそうとする。
瞬間――
「??・??????」
何か声が聞こえたと同時に突風が吹き荒れ、ゴブリンの緑色の肌から赤い血が零れた。その後も刻むようにゴブリンの身体に切り傷がついていく。
ゴブリンは未知の攻撃に恐怖したのかその場から逃げるように去って行く。そのゴブリンの後ろ姿を最後にイツキの意識は再び途絶えた。