一章10.「無意識なる覚醒?」
やばい。やばい、やばい、やばい。
エメラダを抱えたままここから逃げられるのか?あまつさえ、この怪我を治すためには村の教会に行かなければいけないのに…。こうなったら、こいつらから逃げながら村の方向に走るしかない。魔除けの石は慌てて出てきたせいで小屋に置いてきてしまった。あれを取りに行く時間は無い。イノシシになって走るのだって、怪我をしているエメラダには酷だろう。それでエメラダが死んでしまったら本末転倒だ。このまま抱えていくしかない。
イツキは非力な腕でエメラダを抱え上げ、ゴブリンたちに背を向けて走った。
当然ゴブリンたちもその後ろをついてくる。奴らは、小さい体を利用してアクロバティックに森を走ってくる。確実に距離を縮められながらも必死に逃げるイツキ。木の張っている根につまずきそうになりながらも懸命に走る。
このままじゃ追い付かれてしまう。もっと速く走らなきゃ。でも、イノシシの姿で走るとなるとエメラダを咥えながらになってしまう。そんな不安定な体制では負担にしかならない。くそ。僕の足がもっと速ければ。人間の姿のままイノシシの脚力が使えればいいのに…。それにしてもあいつらの匂いが臭すぎる。腐敗臭とでもいうのだろうか。これ以上近寄られると鼻が曲がりそうだ。
イツキは、ここでようやくこの能力の本質に気付く。
なんでこの姿なのに、嗅覚が強くなっているんだ…?もしかして、この姿のままでもイノシシにできることならできるってことなのか?ということは!エメラダを抱えながら速く走れるじゃないか。よし、やってみよう。
ゴブリン達は、目を疑った。足の遅い人間が足手まといを抱えながら、自分たちから逃げ切れる訳がない。だから、なめ切っていた。いずれ体力が尽きて、自分たちの食料になると思い込んでいた。その食料が、信じられないスピードで森を駆ける姿を見るまでは。
ゴブリン達がどうしようと狼狽えだす。お互いの目を見やり、明らかに困惑の表情を浮かべながら鳴き声を上げている。しかし、それは一人の登場によって咆哮へと変わる。
傷だらけの皮膚を露呈させたゴブリン。そいつが他のゴブリン達に何か指示を出すように声を張り上げた。
すると、ゴブリン達はイツキが逃げて行った方向に向かって、ゆっくりと追いかけ始めた。知能はさほど高くないはずのゴブリンが知恵を働かせた。その異常事態をまだ誰も知る由がない。
「…撒けたか?」
前方から凄まじい風を受けながら、追手の警戒を気にするイツキ。
一旦止まって、ゴブリン達の匂いが遠ざかったことを確認する。
「なんとか逃げ切れた…。このまま休憩なしで走れば、村まで一日ぐらいで着くはずだ。エメラダがそれまで持ち応えてくれればいいんだけど。」
イツキは、また走り出した。重たかった前髪が、後ろに靡く。そこから覗かせた顔は何か以前の顔よりも逞しく、勇ましい男の顔をしていた。
☆
「あと…。もう少し…。耐えろ。ここで意識が飛んだら二人ともお陀仏だ。」
あれから一日中走り続け体力は限界。目的地であるアピセ村まであと少し。追手も無し。
これでエメラダの傷も治してもらえる。僕らは、助かるんだ。
その一瞬の油断。エメラダを抱えていた腕の力が抜ける。元々、体力も筋力もないイツキの腕は、もう限界を迎えていた。エメラダは平均よりは軽いだろうが、それでも人間一人を持ち上げることに変わりはない。むしろ一日よく耐えていた。意識も朦朧とし、目が虚ろう。
そのままエメラダが落ちていく。それを見たイツキはハッとした。エメラダを落としてしまった。しかも、最悪の場所で。前回、エメラダに気を付けてと言われていた崖。その崖の下には、見えない闇が広がっている。
イツキは必死に腕を伸ばす。もう遅いと知りながら、それでも自分のせいで彼女の命が落ちるようなことがあってはいけない。彼女にあんなにも辛い「死」を体験させるわけにはいかない。高いところから落ちる痛みを誰よりも知っている。だからこそ届かなくともこの腕を伸ばすのだ。
届け。届けよ。僕の腕が引きちぎれたっていい。彼女がそれで助かりさえすれば、それでいいんだ。届け。届けぇぇぇぇぇぇ。
すると、イツキは、右の手で何かを掴む。人の腕の長さでは、届くはずはなかった。無駄な行動だとも知っていた。しかし、確実に触れている。エメラダの手を掴んでいる。奇跡を起こした。何故だかは分からない。それでもイツキの腕は信じられない程に伸びていた。まるでスライムの様に…。
イツキは、伸びた腕を縮めて、エメラダを地上まで引き上げる。
「助かった…。よく分からないけど、エメが無事ならもう何でもいい。」
疲労で正常な働きをしていない脳で考えられるのは、ただエメラダが生きているという事実。温かいその体をもう一度抱え上げ、イツキは村へと向かう。
何度もよろけてしまいそうになりながら、それでも足を踏ん張って。体の所々を痙攣させながら、それでも力を振り絞って。気を失いかけても、奥歯を噛み締めて。
そうして歩きながら、イツキはようやくアピセ村に辿り着くと同時にバタリと倒れた。
その異変に気付いた村人が近寄ってくる。その男は、イツキ達を見るや否や顔を恐怖に染める。化け物を見たかのような顔で村の方に大声を出しながら、走り去って行く。
「大変だ!神父様!お助けを!」
その声に反応した村人たちは、続々と顔を覗かせた。その中には、神父も居た。
神父は、見たことのある少年がそこに倒れているのを見て、走って近寄った。
「黒髪の少年!大丈夫かい?何かあった…!!!」
神父は話の途中で、イツキと一緒に倒れている人間を見て先の男と同様の表情を浮かべた。
「丁度良かった…。神父さん…。この子の怪我を治してやってください…。お願いします…。」
イツキは神父の表情なんかを気にするよりも、いつ死んでしまってもおかしくないエメラダの治療を最優先させた。ようやく、エメラダの命が助かると安堵したのも束の間――
「何を言っている!そんな奴は、このまま死んでしまえばいいのだ!この疫病神め!これだから黒髪は不吉だと言われているんだ!このまま村から立ち去るがいい!」
は?こいつは何を言っているのだ。疲労で幻覚でも見ているのだろうか。だって、あんなに優しそうだった神父がこの様な汚い言葉を発するわけがないだろう。きっと悪い夢だ。そうに違いない。
「何をボーッとしている!さっさと立て!ふざけるな!」
神父は、そのままイツキの腹部を思い切り蹴った。
イツキの身体は限界。思考回路もまともに働かない。それでも蹴られたことは理解できた。いつもいじめられていた時に感じていた衝撃と同じ。忘れられるわけがない痛み。
これは幻覚じゃない。現実だ。忘れていた。人間なんて元からこういう生き物だった。僕は、この世界に来てからほとんどをエメと過ごしていた。だから、麻痺してしまった。あまりにもエメがいい子だから。だから、人間が醜い生き物だということを忘れていた。
イツキの中に憎しみが憎悪が溜まる。この不条理に怒りが。人間という何とも浅ましい生き物への憤りが。蓄積される。
だが、そのことに気付けても今のイツキには何も出来ない。ここで怒りのままに行動してしまっては、治してもらえるものも治せない。このままでは…。このままでは、エメラダが死んでしまう。誰か。誰かいないのか?
そのイツキの心の声が届いたのか、そこに一人の男がやって来た。
「神父様。お待ちください。ここは、私に預けてくださいませんか?」
金髪を靡かせたその男は、こちらを見てニコリと微笑んだ。まるで英雄の様に。